日本
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日本国(にほんこく、にっぽんこく、英: Japan)、または日本(にほん、にっぽん)は、東アジアに位置する民主制国家[1]。首都は東京都[注釈 2][2][3]。
公用語 | 日本語(事実上[注釈 1]) | ||||||||||||||||||||||||||||
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首都 | 東京都(事実上[注釈 2]) | ||||||||||||||||||||||||||||
最大の都市 | 東京都区部[注釈 3] | ||||||||||||||||||||||||||||
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建国 | 諸説あり 日本神話による初代・神武天皇即位の日(辛酉年1月1日)。グレゴリオ暦換算での紀元前660年2月11日(紀元節)は明治時代に推定された[6][注釈 5]。 |
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通貨 | 円(JPY) | ||||||||||||||||||||||||||||
時間帯 | UTC+9 (DST:なし) | ||||||||||||||||||||||||||||
ISO 3166-1 | JP / JPN | ||||||||||||||||||||||||||||
ccTLD | .jp | ||||||||||||||||||||||||||||
国際電話番号 | 81 |
- 日本国
- 日本国[1]
-
(国旗) (国章(慣例上)) - 国の標語:特になし
- 国歌:君が代
-
- “第Ⅱ章 都道府県別面積” (PDF). 令和4年全国都道府県市区町村別面積調(1月1日時点). 国土交通省 国土地理院. (2022年3月23日). p. 5. オリジナルの2022年3月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220323125218/https://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/backnumber/GSI-menseki20220101.pdf 2022年3月23日閲覧。
- “人口推計(令和5年(2023年)9月確定値、令和6年(2024年)2月概算値)”. 総務省統計局 (2023年4月20日). 2024年3月3日閲覧。
- “Report for Selected Countries and Subjects”. IMF (2023年10月). 2023年10月26日閲覧。
- 明治5年太政官布告第344号 で1月29日に推定された後、明治6年太政官布告第344号 で紀元節を2月11日に定める
日本は1964年4月28日に「先進国クラブ」とも呼ばれていた経済協力開発機構(OECD)の21番目の加盟国となり、世界的に先進国入りしたと見做されている国である[4][5][注釈 6][6][注釈 7]。全長3500キロメートル以上にわたる国土は、主に日本列島[注釈 8]および南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などの弧状列島により構成される[3][7]。大部分が温帯に属するが、北部や島嶼部では亜寒帯や熱帯の地域がある[8][9]。地形は起伏に富み、火山地・丘陵を含む山地の面積は国土の約75%を占め[9]、人口は沿岸の平野部に集中している。国内には行政区分として47の都道府県があり、日本人(大和民族・琉球民族・アイヌ民族[注釈 9]・外国系諸民族)と外国人と数百人程度の無国籍者[10][注釈 10]が居住し、日本語を通用する[2][3]。漢字文化圏に含まれる国の1つでもある[11]。
自然環境
自然地理的には、ユーラシア大陸の東に位置しており、環太平洋火山帯を構成する[2]。島嶼国であり、領土が海に囲まれているため地続きの国境は存在しない。領土を取り巻く海は他国から日本への侵略を非常に難しくしている[12]。日本列島は本州、北海道、九州、四国、沖縄島(以上本土)も含めて1万4125の島を有する[13]。気候区分は、北は亜寒帯[14]から南は熱帯[15]まで様々な気候区分に属している[16]。気象条件や地質構造上、様々な自然災害が発生しやすく、台風や地震などの災害被害は世界有数規模である[17]。
人口面
日本国民は単に日本人として一括りに扱われることが多い[18]が、実際は複数の民族で構成されている。日本語を母語とする大和民族が国民の大部分を占め、他に少数民族としてアイヌ民族や琉球民族の存在が知られている[19]。日本に帰化した元外国人も日本国民として居住する[20]。
日本国民以外では在留外国人[21]や無国籍者[10]が居住する。
人口動態を考慮すると、21世紀を通して日本の国民生活がより厳しくなることは確実である。人口は江戸末期まで概ね3000万人台で安定していたが、明治以降は人口急増期に入り、1967年(昭和42年)に初めて1億人を突破した。その後出生率の低下に伴い2008年にピークを迎え、人口減少期が始まった[22][23]。現在は少子化が進んでおり、世界トップクラスの平均寿命の長さや、移入民人口の少なさも相まって、超高齢化社会に移行している。その結果として増税や年金額の減少が起こっている。2025年には1947年 - 1949年生まれの団塊の世代が75歳以上になることによって高齢者人口が約3500万人まで増加し、雇用・医療・福祉などさまざまな分野に影響が及ぶとされ、「2025年問題」と呼ばれている[24][25]。また、75歳以上の高齢者人口は2054年ごろまで増加傾向が継続され、生産年齢人口の減少も併せて進むと見込まれている[24][25]。国立社会保障・人口問題研究所が2023年に示した将来人口推計によると、標準的なシナリオでは、21世紀を通して人口減少が継続し、2056年に1億人を下回ることが予測されている[26]。このような状況下で進む生産年齢人口の減少により、労働力の不足、国内需要の減少による経済規模の縮小など様々な社会的・経済的課題も深刻化することが予測されており[27]、日本社会の持続可能性にも少なからぬ影響を及ぼしている[23]。少なくとも、少子高齢化の進展により2040年には年金給付が保険料収入を大幅に上回ることが予想されているため自助の比重が高まり、国民においては若年期からの数十年に渡る継続的な老後資金の積み立て(NISA,iDeco,個人年金保険等)や高齢期(65歳以降)の労働が必要な状況が生じている[28][29][30]。数千万円の老後資金の積み立てが必要なことや、円安に起因する物価高や、増税のために、国民の大多数は可処分所得の減少から生活苦に陥り、家庭を持つことを諦める国民も増えつつある。2019年にメキシコに抜かれるまでは日本の世界人口に占める割合の順位は10位だったが、2023年現在は12位になっている。前述のことを総合的に勘案すると、日本の将来を楽観視することはできない。
産業面
21世紀までに奇跡的な高度経済成長と長期の経済停滞を経てきている。日本は1945年に敗戦した太平洋戦争からの復興を果たし、国内で多数の企業が躍進した結果、1964年のOECD加盟をもって先進国入りを果たし、OECD加盟時に受諾した資本自由化等の義務を忠実に履行して政策協調も行った[4]。太平洋ベルトを基盤として官民が総力を挙げて取り組んだ経済成長の最高の到達地点と言えるバブル絶頂期を迎えた1989年、世界の時価総額ランキングの上位10社の殆どを日本企業が独占するほどに日本の産業(特に製造業)が世界を席巻した。しかし、その後はIT革命に乗り遅れ[31][32]、情報技術(IT)分野を中心とする米国企業に大きく抜かれた[33]。21世紀に入ってからは、中国やアメリカ、インドの企業群との競争が激しい状況下であるが、自動車産業やエレクトロニクス産業、重化学工業の中心地であり[34][35]、科学技術のリーダーとされる[36]。しかし、情報技術(IT)では遅れをとっており、古くブラックボックス化したレガシーシステムが産業界の至るところに残っているため、2025年には「2025年の崖」という問題が発生してデジタルトランスフォーメーション(DX)の実現に歯止めが掛かると言われている[24]。DXの遅れは大きな経済損失を生むため、「2025年の崖」を境にして日本の経済は大きく落ち込む可能性がある[24]。更に2030年には日本経済を駆動する物流において、トラックドライバーの不足により全体の3割以上の荷物がトラックで配送できなくなる「物流危機」が生じるため、日本経済が致命傷を受ける可能性がある[37]。
トヨタ自動車、パナソニック、東京エレクトロン、任天堂、日立製作所、三菱重工業、日本製鉄、三菱ケミカル、東レ、武田薬品工業、ENEOS、INPEX、三菱商事、ソニー、セブン&アイ、三井不動産、日本電信電話、三菱UFJフィナンシャル・グループなど多数の大企業を輩出し、また、経済複雑性指標において日本は1984年(昭和59年)以降、一貫して世界首位を維持している。このような理由から、列強の一国とみなされる[38][39]。人間開発指数は高く先進国のひとつに数えられており[40]、経済協力開発機構、G7、G8およびG20の参加国である。名目GDPは世界第4位かつ購買力平価は世界第4位である[41]。
経済平和研究所による2022年(令和4年)の健全なビジネス環境ランキングでは、日本はオーストラリア、スイス、カナダ、英国に次いで世界第5位となっている[42]。また、2020年(令和2年)の国際労働組合総連合(ITUC)の労働権ランキングでは、世界で6段階中の2番手のグループに属し、台湾やシンガポールとともにアジアで独歩的な位置を占め、世界的にもドイツやイタリアには及ばないものの、フランスやカナダと同格、アメリカ合衆国やイギリスよりも高く、上位レベルとみなされる[43]。但し、「中抜き」という中間マージンを搾取する商慣習があらゆる産業に蔓延っており、日本経済の効率性を大きく落とす原因になっている[44]。また、時代に合わなくなり利益が上がらなくなった企業を政府が支援することで急増した「ゾンビ企業」が日本経済の硬直化の原因となっている[45]。
日本は島国で他国との文化的差異が大きい上に内向き志向が強く、国内市場も比較的大きいため、日本の産業界は国内での売上を基本とする傾向にあり、様々な産業でガラパゴス化が起きている。具体的には、他国の発明を日本に輸入して国内市場に特化した改良を行う事が多く、日本市場でしか通用しない(つまりは世界シェアを獲得できない)製品が多数作られている[46]。世界に先駆けて高機能化が進んでいたが、世界標準の技術で作られたスマートフォンに日本国内のシェアまで奪われたガラケーは、ガラパゴス化した製品の最も典型的な例として否定的な意味で議論の俎上に上がる事が多い[47]。しかし、後述する文化のように、ガラパゴス化が良い意味での固有性をもたらす事もある。
文化面
文化面では漢字文化圏に含まれ、日本庭園、日本建築、和食、着物や宗教(神道・日本仏教)、武道・武術(特に古武道)などの伝統文化を保持し、複数の世界遺産を保有している。また漫画、特撮、アニメ、ゲーム、アイドル、シティ・ポップを始めとするポップカルチャーの中心地である。他にも、日本の成人はOECDの調査で読解力・数的思考力においてフィンランドやスウェーデンなどと並んで世界のトップレベルにあるため総じて理性的であり、お互いに順番を守り時には譲り合いをしてストライキや暴動といった過激な行動も滅多に起こさないという規律の正しさや、銃刀法により火器や規定以上の刃物の無許可での所持が禁止され、銃犯罪はおろか、女性が夜道を1人で歩いていても犯罪被害に遭うことすら殆ど無いという理想に近い治安の高さも実現している[48][49][注釈 11]。これらの文化は、欧米圏の文化と比べ特異な文化として海外から注目されている[注釈 12]。食文化は最も特筆するべき点で、性愛を最も快いとする他国民と異なり日本人は「美味しいものを食べる」ことが最も快いと感じており[50]、食について一切妥協しない国民性によって磨き上げられた美食については圧倒的世界一の強さを誇っている。まず、2023年時点で東京は2008年のミシュランガイド[注釈 13]初掲載以来16年連続で世界1位に輝いており、レストランの価格帯を問わない全般的な品質水準の高さと多数の国の料理が楽しめる多様性で他国の都市を圧倒する世界一の美食都市として世界的に知られている[51][52][53][54]。また、ミシュランガイドでは2位のパリに続いて京都が3位、大阪が4位と複数の日本の都市が最上位を独占していることから、日本は美食について単に世界一であるだけでなく、他国を寄せ付けないほどの圧倒的な強さを持つことが客観的に証明されている[53][55]。日本人にとっては食事が美味しいことは当たり前過ぎるため世界にアピールしていない食文化は非常に多いが、訪日外国人がSNSを通して新たな価値の発見として世界に広めており[56]、「ガストロノミーツーリズム(食を中心としたツーリズム)」[57]を目的として来日する外国人も増加している。日本発のゲームも世界的に有名で、日本のゲーム文化の原点であるマリオシリーズを筆頭に数々のタイトルが世界的に広く知られている。家庭用ゲーム機のハードウェアでは、1990年代までに任天堂・ソニー・セガの3社が世界シェアの大部分を獲得し、強固なゲームプラットフォームとなったが、2001年(平成13年)3月にはセガが撤退した。但し、他国からも大ヒットするタイトルが発表されているように、往時と比較して他国のゲームソフトメーカーの勢いは増しており、日本では制作が難しい巨額の費用を掛けた外国人好みの大作が多数制作されている他、ゲームプラットフォームについてもマイクロソフトのXBOXやValve CorporationのSteam等の他国発のプラットフォームに押されつつある。前述の通り、様々な日本文化が海外から注目されているが、19世紀後半にもヨーロッパでジャポニスムという流行が起きた事はあるため、21世紀以降に限った話ではない。
政府はクールジャパン戦略を実行するなど、観光立国を推進している。2021年(令和3年)には東京オリンピック[注釈 14]が開催され、2025年(令和7年)には大阪・関西万博も予定されるなど、国際的イベントの招致にも力を入れる。2021年、USニューズ&ワールド・レポートの2021 Best Countries ランキングで第2位となった[58]。2020年、日本は国際送金サービスを扱うremitlyで調査した最も移住したい国ランキングで、カナダに次いで2位を占めた 。2023年、オンライン言語学習アプリ Preply の運営会社の調査によりZ世代のアメリカ人が希望する移住先としてアメリカと比較的近い文化を持ち言語面での苦労も少ない1位のイギリス,2位のカナダの2カ国に次いで非英語圏である日本が3位となったことが分かった[59]。当調査で他国への移住を望むとしたZ世代のアメリカ人には異文化体験を理由に挙げる者が最も多く、日本がアジアで1位となった要因として世界的に顕著な日本文化への憧れが影響していると見る向きもある[60]。
略史
日本は古くから中国大陸、朝鮮半島との関係が深く、飛鳥時代・奈良時代には遣隋使、遣唐使といった交易を通して法制度・仏教・儒教・漢文などを輸入し、国家体制の構築に役立てている。また、正倉院にペルシア・インドを由来とする文化財が複数含まれることを例に取れるように、唐や朝鮮に限らず交易を通じてアジア・シルクロード文化も流入している。律令体制樹立後の平安時代末期より武家政権が成立し、幾度も交替する。江戸時代に至って交際国を限定する「鎖国」を行ったが、外圧を受けて開国し、明治維新の過程で王政復古の大号令で武家政権が終焉した。
版籍奉還や廃藩置県などを経て中央集権化を完了した後、自由民権運動を受けて大日本帝国憲法が制定され、国会が設置された[61]。同時に西洋の資本主義を参考にして日本初の銀行や東京株式取引所および銀行と取引を行う会社が次々と創業された。並行して工業化も進展し、ここに西洋化・近代化が果たされ、日本は近代国家・立憲君主制国家へ移行する。
日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦に勝利した日本は、開国時に欧米諸国と結んだ不平等条約を撤廃させ、領土を拡張した。国際連盟発足にあたっては、日本は国際連盟規約への人種差別撤廃明記を呼びかけたが(人種的差別撤廃提案)、実現には至らなかった[62][63]。アメリカ不在の国際連盟において常任理事国の地位を確保した日本は、大正デモクラシーを受けて政治的・文化的発展が進み、政党政治の慣例の確立や普通選挙法成立など民主主義の発展が見られた。しかし、世界恐慌とそれに続くブロック経済化の中で日本は五・一五事件や二・二六事件、政党の汚職事件などに揺れて政党政治が後退[64]、軍の影響の強い挙国一致内閣が常態化した[65]。満州事変に続き日中戦争に向かい、第二次世界大戦に枢軸国として参戦、連合国軍と対戦したが太平洋戦争に敗れた。
占領下では連合国軍総司令部(GHQ)の指示を受けて国民主権、基本的人権の尊重、平和主義などを謳う[66]日本国憲法が制定され、日本は再び政党政治を基調とした民主主義国家となる。戦後復興ののち、冷戦の中で自衛隊と日米安保条約を軸とした国防を維持しながら、1960年代から高度経済成長期に入り、工業化が加速し加工貿易が推進された結果経済大国になったが、プラザ合意を経てバブル経済に突入し、1990年代初頭にバブル経済が崩壊すると以後は経済停滞期に入った[2][注釈 15]。現在は世界最大の対外純資産国となっている[67]。しかし富の再分配においては、所得格差は拡大している[68][69]。環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定を推進するなど、概ね自由貿易体制を支持している。
「日本」という漢字による国号の表記は、日本列島が中国大陸から見て東の果て、つまり「日の本(ひのもと)」に位置することに由来するという説がある[70]。近代の二つの憲法の表題は、「日本国憲法」および「大日本帝国憲法」であるが、国号を直接かつ明確に規定した法令は存在しない[71]。ただし、日本工業規格では「日本国」、英語表記をJapanと規定。更に、国際規格(ISO)では3文字略号をJPN、2文字略号をJPと規定している。また、外務省から発給される旅券の表紙には「日本国」の表記と十六一重表菊[注釈 16] を提示している。法令で日本を指し示す表記には統一されておらず「日本」「日本国」「本邦」「わが国」などが混在している。
日本語の表現
発音
「にほん」、「にっぽん」二つの呼び方がある。どちらも多く用いられているため、日本政府は正式な読み方をどちらか一方には定めておらず、どちらの読みでも良いとしている[73]。
7世紀の後半の国際関係から生じた「日本」国号は、当時の国際的な読み(音読)で「ニッポン」(呉音)ないし「ジッポン」(漢音)と読まれたものと推測される[74]。いつ「ニホン」の読みが始まったか定かでない。仮名表記では「にほん」と表記された。平安時代には「ひのもと」とも和訓されるようになった。
室町時代の謡曲狂言は、中国人に「ニッポン」と読ませ、日本人に「ニホン」と読ませている。安土桃山時代にポルトガル人が編纂した『日葡辞書』や『日本小文典』などには、「ニッポン」「ニホン」「ジッポン」の読みが見られ、その用例から判断すると、改まった場面・強調したい場合に「ニッポン」が使われ、日常の場面で「ニホン」が使われていた[75]。このことから小池清治は、中世の日本人が中国語的な語感のある「ジッポン」を使用したのは、中国人・西洋人など対外的な場面に限定されていて、日常だと「ニッポン」「ニホン」が用いられていたのでは、と推測している[76]。なお、現在に伝わっていない「ジッポン」音については、その他の言語も参照。
近代以降も「ニホン」「ニッポン」両方使用される中、1934年には文部省臨時国語調査会が「にっぽん」に統一して外国語表記もJapanを廃してNipponを使用するという案を示したこともあったが、不完全に終わった。同年、日本放送協会(NHK)は「放送上、国号としては『にっぽん』を第一の読み方とし『にほん』を第二の読み方とする」旨の決定をした[77]。
その後現在も両方使用されており、2009年6月30日に政府は「『にっぽん』『にほん』という読み方については、いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はない」とする答弁書を閣議決定している[73]。
現在、通商や交流の点で自国外と関連のある紙幣、切手などには「NIPPON」と描かれている(紙幣発券者も「にっぽんぎんこう」である)。
- 「にほん」(NIHON)
- 「にっぽん」(NIPPON)
また、日本テレビ放送網(日本テレビ)、東日本電信電話(NTT東日本)・西日本電信電話(NTT西日本)のように、社名では「にっぽん」、愛称は「にほん」と使い分けている例や、東日本高速道路(NEXCO東日本)・中日本高速道路(NEXCO中日本)・西日本高速道路(NEXCO西日本)のように英字社名は「Nippon」、日本語での社名では「にほん」を用いる例もある。
日本経済新聞が2016年に行った調査によると、社名に「日本」が含まれる上場企業の読み方は、「にほん」が60%、「にっぽん」が40%であり、「にっぽん」と読ませる企業の比率が増加傾向にあった。テレビ番組名では「にっぽん」が使われることが多くなってきている[78]。なお、日本国憲法の読みについて、内閣法制局は、読み方について特に規定がなく、どちらでもよいとしている[79]。日本国憲法制定の際、読みについての議論で、憲法担当大臣金森徳次郎は「ニホン、ニッポン両様の読み方がともに使われることは、通念として認められている」と述べており、どちらかに決められることはなかった[77]。
日本の政党名における読みは、次のとおり(国会に複数の議席を有したことのある政党)。
- 「にほん」(NIHON)
- 日本共産党(1922-)、日本労農党(1926-1928)、日本自由党(1945-1948)、日本進歩党(1945-1947)、日本協同党(1945-1946)、日本農民党(1947-1949)、日本民主党(1954-1955)、日本新党(1992-1994)
- 「にっぽん」(NIPPON)
- 日本社会党(1945-1996)、日本自由党(1953-1954)、新党日本(2005-2015)、たちあがれ日本(2010-2012)、日本維新の会(2012-2014)、日本未来の党(2012)、日本を元気にする会(2015-2018)、日本のこころを大切にする党(2015-2018)、日本維新の会(2016-)
日本のオリンピック選手団は入場行進時のプラカード表記を英語表記の「JAPAN」としているが、1912年の初参加となったストックホルムオリンピックの選手団のみ「NIPPON」の表記を使っていた[80]。2021年の自国開催の2020年東京オリンピックでは入場行進時に「にほん」とアナウンスされている。
東京と大阪にある橋の名称と地名になっている日本橋は、東京の日本橋は「にほんばし(Nihon-bashi)」、大阪の日本橋は「にっぽんばし(Nippon-bashi)」と読む。
呼称
古くから多様である。
- 和語
- あきつしま - 「秋津(あきつ)」は、「とんぼ」の意。孝安天皇の都の名「室秋津島宮」に由来するとされる。
- 「秋津島」
- 「大倭豊秋津島」(『古事記』本州の別名として)
- 「大日本豊秋津洲」(『日本書紀』神代)
- あしはらのなかつくに - 「葦原」は、豊穣な地を表すとも、かつての一地名とも言われる。
- うらやすのくに - 心安(うらやす)の国の意。
- 「浦安国」(日本書紀・神武紀)
- おおやしま - 国生み神話で、最初に創造された八個の島で構成される国の意。古事記では順に淡路島:四国:隠岐:九州:壱岐:対馬:佐渡:本州。
- 「大八島」「太八島」
- 「大八洲」(『養老令』)
- 「大八洲国」(『日本書紀』神代)
- くわしほこちたるくに - 精巧な武器が備わっている国の意。
- 「細矛千足国」(日本書紀・神武紀)
- しきしま - 「しきしま」は、欽明天皇の都「磯城島金刺宮」に由来するとされる。
- 「師木島」(『古事記』)
- 「磯城島」「志貴島」(『万葉集』)
- 「敷島」
- たまかきうちのくに
- 「玉牆内国」(日本書紀・神武紀)
- 「玉垣内国」(『神皇正統記』)
- ひのいづるところ - 遣隋使が煬帝へ送った国書にある「日出處」を訓読したもの。
- 「日出処」(隋書)
- ひのもと - 雅語で読むこともある[注釈 17]。
- ほつまのくに
- 「磯輪上秀真国(しわかみの:ほつまのくに)」(日本書紀・神武紀)
- みづほのくに - みずみずしい稲穂の実る国の意。
- 「瑞穂国」
- やまと - 大和国(奈良県)を特に指すとともに日本全体の意味にも使われる。『古事記』では「倭」、『日本書紀』では「倭」「日本」として表記されている。魏志倭人伝などの中国史書では日本(ヤマト)は「邪馬臺」国と借音で表記されている。また『日本書紀』では「夜摩苔」とも表記されている。「日本」の国号が成立する前、日本列島には、中国の王朝から「倭国」・「倭」と称される国家ないし民族があった。『日本書紀』は、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、時間と共に「倭」が「大倭」になり「大和」へと変化していく。その後に更に「大和」を「日本」に変更し、これを「ヤマト」と読んだとする[82]が、『旧唐書』など、これを疑う立場もある。神日本磐余彥天皇(かむ やまと いわれびこ)、稚日本根子彦(わか やまと ねこひこ)など。また、隼人(はやと)などの呼称からすれば、元は山地の人を「山人」(やまと)といったことも考えられる。
- 「虚空見つ日本の国」(そらみつやまとのくに)
- 漢語
- 「倭」「倭国」「大倭国(大和国)」「倭奴国」「倭人国」の他、扶桑蓬萊伝説に準えた「扶桑」[83]、「蓬莱」などの雅称があるが、雅称としては特に瀛州(えいしゅう)・東瀛(とうえい)と記される[84]。このほかにも「東海姫氏国」「東海女国」「女子国」「君子国」「若木国」「日域」「日東」「日下」「烏卯国」「阿母郷」(阿母山・波母郷・波母山)などがあった。
- 「皇朝」は、もともと中原の天子の王朝をさす漢語だが、日本で天皇の王朝をさす漢文的表現として使われ、国学者はこれを「すめみかど」ないし「すめらみかど」などと訓読した。「神国」「皇国」「神州」「天朝」「天子国」などは雅語(美称)たる「皇朝」の言い替えであって、国名や国号の類でない。「本朝」も「我が国」といった意味であって国名でない。江戸時代の儒学者などは、日本を指して「中華」「中原」「中朝」「中域」「中国」などと書くことがあったが、これも国名でない。「大日本」と大を付けるのは、国名の前に大・皇・有・聖などの字を付けて天子の王朝であることを示す中国の習慣から来ている[注釈 18]。ただし、「おおやまと」と読む場合、古称の一つである。「帝国」はもともと「神国、皇国、神州」と同義だったが、近代以後"empire"の訳語として使われている。大日本帝国憲法の後「大日本帝国」の他「日本」「日本国」「日本帝国」「大日本」「大日本国」などといった表記が用いられた。戦後の国号としては「日本国」が専ら用いられる[注釈 19]。
- 倭漢通用
- 江戸初期の神道家である出口延佳と山本広足が著した『日本書紀神代講述鈔』[85]に倭漢通用の国称が掲載されている。
その他の言語
- 英語での公式な表記は、Japan(ジャパン)。形容詞はJapanese(ジャパニーズ)。略記は、ISO 3166-1などで使われるJPN、JPが多く用いられる。JAP(ジャップ)は英語圏を中心に侮蔑的な意味があるが、一部の国[注釈 20]やIOCコードでは中立的な立場でJAPが用いられる。Nippon(ニッポン)が用いられる例も見られ、具体的には、UPUなどによるローマ字表記(1965年以降)、郵便切手や日本銀行券などでNippon表記を用いている。略称は、NPNが用いられる。
- その他、各言語で日本を意味する固有名詞は、アン チャパイン(愛: an tSeapáin)、ヤーパン(独: Japan)、ジャポン(仏: Japon)、ヤパン(蘭: Japan)、ハポン(西: Japón)、ジャッポーネ(伊: Giappone)、ヤポニヤ(波: Japonia)、ヤポーニヤ/イポーニヤ[注釈 21](露: Япо́ния)、ヤポーニヤ(宇: Япо́нія)、イープン(泰: ญี่ปุ่น)など、特定の時期に特定の地域の中国語で「日本国」を発音した「ジーパングォ」を写し取った(日本語読みの「ジッポン」に由来するとの説もある)、ジパング(Xipangu/Zipang/Zipangu)ないしジャパング(Japangu)を語源とすると考えられる。
- 漢字文化圏においては、リーベン(中: Rìběn;日本)[注釈 22]、イルボン(朝: 일본;日本)、ニャッバーン(越: Nhật Bản;日本)[注釈 23]など、「日本」をそのまま自言語の発音で読んでいる。
- 9世紀半ば以降の中世アラブ世界では、東方の彼方に存在する黄金に富む土地をワクワク(阿: الواق واق)と呼んでいた。この呼称の由来として、当時の中国における呼称である「倭国」がアラブ世界に伝わって訛った結果との説がある。また、東方の黄金に富む土地という意味についてもジパング伝説と一致する。
- 欧州発行の古地図上での表記
- 「CIPANGU」1300年ごろ[86]
- 「IAPAM」1560年ごろ[87]
- 「ZIPANGNI」1561年[88]
- 「IAPAN」1567年ごろ[89]
- 「IAPAM」1568年ごろ[90]
- 「JAPAN」発行年不明[91]
- 「IAPONICUM」1585年[92]
- 「IAPONIAE」1595年[93]
- 「IAPONIA」1595年[94]
- 「IAPONIÆ」1595年[95]
- 「IAPONIA」1598年[96]
- 「IAPONIA」1598年[97]
- 「IAPAO」1628年[98]
- 「Iapan」1632年[99]
- 「IAPONIA」1655年[100]
- 「IAPON」発行年不明[101]
- 「Iapan」1657年[102]
- 「IAPONIA」1660年ごろ[103]
- 「NIPHON」1694年ごろ[104][注釈 24]
- 「JAPAM」1628年[105]
- 「YAPAN」1628年[106]
- 「IAPON」17世紀[107]
- 「IMPERIUM IAPONICUM」18世紀初[108]
- 「IMPERIUM IAPONICUM」1710年ごろ[109]
- 「IAPONIA」18世紀初[110]
- 「IAPON」1720-30年[111]
- 「IMPERIVM JAPONICVM」1727年[112]
- 「HET KONINKRYK JAPAN」1730年ごろ[113]
- 「JAPANIÆ REGNVM」1739年[114]
国号の由来
概説
日本では、大和政権が統一以降に自国を「ヤマト」と称していたようであるが、古くから中国や朝鮮は日本を「倭」と呼んできた。石上神宮の七支刀の銘や、中国の歴史書(『前漢書』『三国志』『後漢書』『宋書』『隋書』など)や、高句麗の広開土王の碑文も、すべて倭、倭国、倭人、倭王、倭賊などと記している。そこで大和の代表者も、外交時には(5世紀の「倭の五王」のように)国書に「倭国王」と記すようになった[115]。
しかし、中国との国交が約120年に渡って中絶した後、7世紀初期に再開された時には、初回は「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」(『隋書』)、これに隋が「皇帝、倭皇に問う」(『日本書紀』)と応じ、第2回は「東の天皇が西の皇帝に白す」(『日本書紀』)とする国書を日本側の遣隋使が渡した記述があり、初回の遣唐使を送ってきた唐使と礼を争った時も『日本書紀』では「天子の命のたまへる使、天皇の朝に到れりと聞きて迎えしむ」と日本側が発言している。いずれも「天子」「天皇」は記すが国名は記していない。当時編纂されたとされ、現存しない歴史書『天皇記』『国記』も君主号のみがあり国号は無い[注釈 25]。中国側では『旧唐書』の「東夷伝」に初めて日本の名称が登場し、倭国伝と日本伝を別に立て「日本国は倭国の別種なり。其の国、日の辺に在るを以ての故に、日本を以て名と為す」「或いは曰く、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す」「或いは曰く、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併す」のように、倭と日本の関係について説明している[116]。『新唐書』東夷伝も似た記事を載せるが、日本伝のみを立て、倭国が日本国を併合して国号を奪ったとする異伝を記す点が大きく相違する。
遣唐使はその後もしばしば派遣されているが、いつから「倭」に変えて「日本」を国号としたのかは明らかでない[117]。使者の毎回の交渉について詳しく記述している『日本書紀』も、8世紀に国号としての日本が確立した後の書物であり、原資料にあった可能性のある「倭」という国号の多くを「日本」と改めている[注釈 26]。対照的に『古事記』には「日本」という文字は全く現れない。それ以外の文献では、733年(天平5年)に書かれた『海外国記』の逸文で、664年(天智3年)に太宰府へ来た唐の使者に「日本鎮西筑紫大将軍牒」とある書を与えたというが、真偽は不明である。結局確かなのは『続日本紀』における記述であり、702年(大宝2年)に32年ぶりで唐を訪れた遣唐使は、唐側が「大倭国」の使者として扱ったのに対し、「日本国使」と主張したという。『旧唐書』『新唐書』の記事も、この日本側の説明に基づいているようである[118]。なお『万葉集』の歌謡では692年、持統天皇が伊勢国の神郡[注釈 27]に行幸したときに随行した石上麻呂の歌(44番)が「日本」の初出であり、この「日本」は大和国(現在の奈良県[注釈 28])の意味で使われている[注釈 29]。
詳細
『日本書紀』では日本の初代天皇の神武天皇は
唐の張守節が開元24年(736年)に記した『史記正義』虞舜篇には「武后改倭國爲日本國(武后が倭国を改めて日本国と為す)」、夏禹篇には「倭國武皇后改曰日本國(倭国は武皇后が改めて日本国と曰う)」とある。北宋の王溥が建隆2年(961年)に記した『唐会要』には「咸亨元年三月、遣使賀平髙麗、爾後繼来朝貢則天時、自言其國近日所出、故號日本國(咸亨元年(670年)三月、使を遣わし、高麗を平ぐるを賀し、爾後継いで来たりて朝貢す。則天の時、自ら言う「其の国、日の出づる所に近し、故に日本国と号す」と)」とある。北宋の宋祁が嘉祐5年(1060年)に記した『新唐書』には「天智死、子天武立。死、子總持立。咸亨元年、遣使賀平髙麗、後稍習夏音、惡倭名、更號日夲。使者自言、国近日所出、以爲名(天智死し、子の天武立つ。死し、子の總持立つ。咸亨元年、使を遣わし髙麗を平ぐるを賀す、後ち稍く夏音を習い、倭の名を悪み、更めて日夲と号く。使者自ら言う、国、日の出づる所に近く、以て名と為すと)」とあり[119]、名前や系譜の誤りはあるが持統天皇が国号を変更したとする。『史記正義』は唐代に成立した書物、『唐会要』は唐代に編纂されたものが北宋期に完成した書物、『新唐書』は唐代に成立した史料を元に成立した書物であることから、信憑性は高いと考えられる[120]。武則天が改名したとする『史記正義』の記事は事実には反するが、中華思想の立場からの表現と考えられる[注釈 30]。
『三国史記』の新羅本紀では「670年、倭国が国号を日本と改めた」とされているが、井上秀雄と吉田孝は、これは上記の『新唐書』を誤って引用したものとする。新羅本紀には「698年、日本国から使者が来た」という記事もあるが、『続日本紀』にはこれに対応する記事は無い。「倭」と「日本」の関係について、『日本書紀』によれば、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、やがて、その「ヤマト」に当てる漢字を「倭」から「日本」に変更し、当初はこれを「ヤマト」と読んだとする[82]。
「日本」という国号の表記が定着した時期は、7世紀後半から8世紀初頭までの間と考えられる。このころの東アジアは、618年に成立した唐が勢力を拡大し、周辺諸国に強い影響を及ぼしていた。斉明天皇は658年臣の阿倍比羅夫に、外国である粛慎(樺太)征伐を命じている。663年の白村江の戦いでの倭国軍の敗戦により、唐は使者を倭国に遣わし、唐と倭国の戦後処理を行っていく過程で、倭国側には唐との対等関係を目指した律令国家に変革していく必要性が生じた。これらの情勢を契機として、668年には天智天皇が日本で最初の律令である近江朝廷之令(近江令)を制定した。そして672年の壬申の乱を経て強い権力を握った天武天皇は、天皇を中心とする体制の構築を更に進め、689年の飛鳥浄御原令から701年(大宝元年)の大宝律令の制定へと至る過程において国号の表記としての「日本」は誕生したと考えられる。
具体的な成立の時点は、天智天皇の時代(670年)説を除いた見解は以下の2説に絞られる。
- 天武天皇の治世(672年 - 686年)に成立したとする説[121]。これは、この治世に「天皇」の号および表記が成立したと同時期に「日本」という表記も成立したとする見解である。例えば吉田孝は、689年の飛鳥浄御原令で「天皇」表記と「日本」表記と両方が定められたと推測する[122][注釈 31]。
- 701年(大宝元年)の大宝律令の成立の前後に「日本」表記が成立したとする説。例えば神野志隆光は、大宝令公式令詔書式で「日本」表記が定められたとしている[123]。ただし、『日本書紀』の大化元年(645年)七月条には、高句麗・百済からの使者への詔には「明神御宇日本天皇」とあるが、今日これは、後に定められた大宝律令公式令を元に、『日本書紀』(720年(養老4年)成立)の編者が潤色を加えたものと考えられている[124]。
8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」からの遣使(遣唐使)があったと記されている[125]。後代に成立した『旧唐書』[126][127]、『新唐書』[128]にも、この時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐(武則天、大周)へ伝えられたとの記述がある。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とする。国号の変更理由については「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」という日本国側からの説明を記載するものの、倭国と日本国との関係については、単なる国号の変更ではない可能性について言及している。すなわち、『旧唐書』は「小国だった日本が倭国を併合した」とし、『新唐書』は、日本の使者は「倭が国号を日本に変えた」とか「倭が小国だった日本を併合し国号を奪った」と説明したとする説を記している[注釈 32]。また、日本の王の姓は阿毎氏であること、筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となったことなどが記載されている。
これまでに発見されている「日本」国号が記された最古の実物史料は、開元22年(734年、日本:天平6年)銘の井真成墓誌である[注釈 33]。但し2011年7月、祢軍[注釈 34]という名の百済人武将の墓誌に「日本」の文字が見つかったという論文が中国で発表された。墓誌は678年制作と考えられており、もしこれが事実であるならば日本という国号の成立は従来説から、さらに遡ることになる[130]。
『旧唐書』・『新唐書』などを理由として「日本」国号は、日本列島を東方に見るという中国大陸からの視点に立った呼称であるとする説がある[131]。平安時代初期に成立した『弘仁私記』序にて、日本国が中国に対して「日の本」、つまり東方に所在することが日本の由来であると説明され、平安時代に数度に渡って行われた『日本書紀』の講読の様子を記す『日本書紀私記』諸本においても中国の視点により名付けられたとする説が採られている[注釈 35]。
『隋書』東夷伝に、倭王が隋皇帝への国書に「日出ずる処の天子」と自称したとあり、このときの「日出ずる処」という語句が「日本」国号の淵源となったとする主張もある。しかし、「日出ずる処」について、仏典『大智度論』に東方の別表現である旨の記述があるため、現在、単に文飾に過ぎないとする指摘もある[132]。