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日本の戦国時代~安土桃山時代の武将。徳川家家臣植村氏明の子で、植村出羽守家2代当主。旗本先手役・家老を勤める ウィキペディアから
植村 家存(うえむら いえさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川氏の家臣。初名は栄政、その後徳川家康から偏諱を受けて家政、さらに後に家存と名乗る。
天文18年(1549年)、9歳の時から家康に仕える。その後、天文21年(1552年)に父・植村氏明が死去したため家督を継承する。
永禄5年(1562年)、清洲同盟の際は清洲城に赴いた主君・徳川家康の護衛を務める。この時、織田信長についてゆき、家康一行が書院に入ろうとしたが、家存が家康の刀を持ったまま入室しようとした為、警固の者に何者かと咎められた。これに対して家存の方は、「我は植村出羽守なり。主君の刀を持って参ったのを、そのように大袈裟に咎めてくれるな」と荒々しく言い放った。この時、それを耳にした織田信長に前漢の樊噲に似ていると賞賛された。会見後、織田信長は護衛役の家存に二振りの行光の太刀を与えた。
その後、酒井忠次、石川家成、石川数正らと共に家康の家老及び旗本先手役となる。
元亀3年(1572年)には織田信長と上杉謙信の同盟の仲介を行い、謙信から長光の刀と山伏出立の具足を贈られた。なお越後国を訪ねるため甲斐国に立ち寄った際、武田信玄に「一世の豪勇」と称されており、武田・上杉の家中に家存の武名は轟いていた。
天正5年(1577年)に37歳で死去。
子孫は徳川家に重用され、高取藩主となる。
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