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福元 一義(ふくもと かずよし、1930年11月5日 - 2016年9月)は、日本の漫画家、漫画編集者、漫画アシスタント。元手塚プロダクション所属。別名:福本一義、福本かずよし、伊奈たかし。
鹿児島県に生まれる[1]。鹿児島県立鹿屋高等学校卒業後[要出典]、グラフィックデザイナーを目指して1949年に日本大学芸術学部に進学[2]。1952年、下宿先で知り合った絵本作家にイラストを認められ少年画報社を紹介され、大学を中退して同社に入社する[2]。少年画報の編集者として、手塚治虫、福井英一、高野よしてる、武内つなよし、河島光広を担当する[2][3]。「手塚番」だった折に、漫画家になる志向と「早く原稿をもらう」方策として、手塚のアシスタントを引き受ける[4]。
1955年に自作に専念するため退社するものの、依頼を引き受けすぎてその大半を落とすという事件や悪書追放運動で『轟名探偵』が槍玉に挙がるなどしたため、一時期漫画が嫌になったという[5]。1957年から1960年代前半まで武内つなよしの「プレイングマネージャー」を務める[6]。武内にとって福元は恩人にあたる(福井英一が急死した際、新人である武内を抜擢し、『赤胴鈴之助』を描き継がせた)[7]。
1965年に手塚治虫が『マグマ大使』を連載開始するにあたって少年画報編集部に出した条件が「福元をアシスタントとして迎えられるならやってもいい」というものであり、同作で手塚のアシスタントを務める[8]。同時期、手塚の元チーフアシスタント井上智の「智プロ」に入社したが、1968年頃に退社した[9]。
1970年、正式に手塚プロダクションに入社[9]。以降手塚が死去するまでアシスタント、チーフアシスタントを務めた。
2016年11月、手塚プロダクション等の関係者により、9月に逝去していたことが明らかになった[10]。手塚治虫の長女で手塚プロダクション取締役の手塚るみ子もTwitterで逝去に触れ[11]、取材に対して手塚治虫に多大な協力をした人物の訃報を知らなかったことを申し訳なく思っているという趣旨を述べた[10]。
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