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細川 直俊(ほそかわ なおとし[注釈 2])は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将。細川氏の一門。通称は細川帯刀先生(ほそかわたちはきのせんじょう)[2]。
元応元年(1319年)[注釈 1]、細川頼貞(細川氏第2代当主細川俊氏の次男)の子として生まれる(『尊卑分脈』「細川系図」[2])。
延元元年/建武3年(1336年)8月24日夜から27日にかけて、阿弥陀ヶ峰城の攻城戦を支援するため、淀・竹田にいる敵を撃破した(『梅松論』下)。
延元2年/建武4年3月10日(1337年4月11日)、兄・顕氏とともに田代顕綱らを率い、河内国葛井寺前大路(現在の大阪府藤井寺市藤井寺)で、南朝軍の大塚惟正(おおつか これまさ)が率いる平石源次郎・八木法達・岸和田治氏らと戦うが、戦死(『和田文書』「岸和田治氏軍忠状」[2])。享年数え19歳(『尊卑分脈』「細川系図」)。最終官位は帯刀長(『和田文書』「岸和田治氏軍忠状」[2])、民部少輔(『尊卑分脈』「細川系図」[2])。
なお、『尊卑分脈』「細川系図」[2]は「四條畷」で戦死したとするが、これが地名ではなく11年後の四條畷の戦いを意味するのだとしたら、一次史料の『和田文書』「岸和田治氏軍忠状」[2]とは矛盾している。
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