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日本の土木技術者、鉄道官僚、実業家 ウィキペディアから
野村 龍太郎(のむら りゅうたろう、1859年2月27日(安政6年1月25日) - 1943年(昭和18年)9月18日)は、大正・昭和期の土木技術者・鉄道官僚・実業家。
安政6年に大垣藩士野村藤陰の長男[注 1]として大垣にて出生。明治5年(1872年)に上京し慶應義塾、東京外国語学校・東京英語学校・東京開成学校(これら3校はともに一高の前身)を経て、1881年(明治14年)7月、東京大学理学部土木工学科卒業。同年、東京府勤務となる。1891年(明治24年)、鉄道庁技師に転じる。1899年(明治32年)3月工学博士となる。1913年(大正2年)5月、鉄道院副総裁に就任。1914年(大正3年)4月7日、錦鶏間祗候に任じられる[1]。
1913年(大正2年)12月、原敬率いる政友会を背景に、南満洲鉄道株式会社(満鉄)総裁となる[2]。着任早々副総裁の伊藤大八が社内制度改革を企てるが、理事・犬塚信太郎がこれに激しく抵抗し、以後自由行動を執り鉄道院総裁仙石貢に実情を訴える[注 2]。仙石はこれを閣議に諮り野村と伊藤に辞職を勧告し、両者がこれを拒んだため[注 3]1914年(大正3年)7月15日をもって免職とした[5]。犬塚信太郎は前日の7月14日付で免職となっている[6]。この時、当時鉄道院監督局長として満鉄の監督官を兼務していた中西清一が内閣の措置が不当であるとして自ら職を辞している。[7]
1919年(大正8年)4月、政友会を背景に再び満鉄社長(総裁に相当する)に就任するが、この当時野村は設立されたばかりの大湊興業株式会社の初代社長として業務にあたっており、本人に満鉄に戻る意思はなかった。しかし原敬の度重なる説得に負け再び大連の土を踏むことになる[8]。その後、政友会の森恪の経営する塔連炭鉱を不当な高値で買収するなど一連の「満鉄疑獄事件」が発覚。副総裁・中西清一は逮捕され、1921年(大正10年)5月には野村も更迭された。満鉄総裁に2回就任したのは野村だけだが、いずれも副総裁のために辞任に至った。
1918年(大正7年)6月に設立された大湊興業株式会社は、犬塚信太郎の岳父である鈴木誠作が中心となって立ち上げた会社であるが[9]、野村は創立委員長として設立以前より会社に参画し、犬塚も創立委員に名を連ね、会社設立後は常務取締役として野村社長を支えた[10][11]。 野村は満鉄社長就任後も相談役として永く大湊興業株式会社の事業に貢献している[12]。
1924年(大正13年)3月には、東京地下鉄道株式会社社長となり、1932年(昭和7年)まで務めた。また、1925年(大正14年)8月に、南武鉄道株式会社社長に就任しており、1934年(昭和9年)11月までその職にあった。
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