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アラビア語文芸では、イスラーム以前の時代から恋愛についての作品が盛んだった。その伝統はイスラーム王朝によってイベリア半島にも伝わって発展をとげる。本書もその一つで、愛の特性や意味、始まりと終わり、良い面や悪い面、恋人たちについて多数のエピソードや自作の詩を交えながら論じられている[3][4]。著者が異性に囲まれて暮らした中で身についた観察眼に加えて、出来事に対する分析と体系化、そして理想主義が融合した内容になっている。エピソードの主な舞台は、当時のヨーロッパにおける大都市で「世界の宝飾」[注釈 1]とも呼ばれたコルドバであり、洗練された宮廷生活の一端がうかがえる[注釈 2][7]。
著者のイブン・ハズムは、神学や法学においてアンダルスのウマイヤ朝(以後「ウマイヤ朝」)を代表する学者の一人だった。しかし、ウマイヤ朝が滅んで乱世へと移り変わる中で、その思想は受け容れられなかった。ほとんどの著作が焼かれる中で、本書は1冊だけ写本が残り、オスマン帝国からヨーロッパに伝わった[8][9]。写本がライデン大学で発見されると、各国の第一線のイスラーム研究者たちによって翻訳され、彼の著作の中で最も有名になった[10]。
イベリア半島は、8世紀からウマイヤ朝による支配が進んだ。ズィンミーの定めによってムスリム、キリスト教徒、ユダヤ教徒が共存し、西アジアから導入した灌漑技術で農業生産が増え、地中海各地との貿易で栄えた[注釈 3]。首都のコルドバは10世紀に少なくとも人口10万人に達し、コンスタンティノープルとともにヨーロッパを代表する都市へと拡大する[12]。コルドバは政治・経済のみならず文化面でも繁栄した。写本が行われた他にバグダードの知恵の館と並んで翻訳事業も盛んであり、古代ギリシアの文献やインド説話もアラビア語に訳された[注釈 4]。キリスト教圏ヨーロッパの図書館の蔵書が最大で400巻だったのに対して、コルドバではカリフの図書館だけで40万巻があった[注釈 5][15]。多数の書籍を作るために製紙業も盛んであり、ハティバではヨーロッパ初の製紙工房が建設され、羊皮紙よりも安価な紙が大量に生産された[注釈 6][17]。
イブン・ハズムはコルドバ近郊の名家に生まれた。幼少期からハレムの女性たちとともに生活し、読み書きをはじめとする教育も侍女から受けて育った。髭が生えそろうまで男性との同席経験がなく、この生い立ちが女性についての観察眼を養ったと回想している[18]。父のアフマドはカリフのヒシャーム2世に仕える大臣であり、大宰相のアル・マンスールを補佐していた。アル・マンスールはカリフを超えるほどの権力を誇ったが、彼の死後に内紛が起き、コルドバは荒廃する。ウマイヤ朝は滅びに向かい、諸王国が並び立つタイファの時代になり、家族や家を失ったイブン・ハズムは19歳でアルメリアに逃れた。彼は流浪の暮らしをしながらウマイヤ朝を再興するために働くものの、従軍した勢力が敗北して捕虜となる。解放されたのちにハティバにたどり着き、この地で暮らしながら29歳の頃に書かれたのが本書である[注釈 7][20][21]。
イブン・ハズムによると執筆の動機は、愛の特性、意味、原因、属性、付随して起こる事柄についての論考を求められたからであった。求められなければ執筆しなかったが、時には心を憩わせるのも必要だと書いている。論考を求めた人物が誰なのかは不明で、アルメリアに住む友人が執筆をすすめたという説もある[22]。
恋愛は、アラビア語文芸の伝統的な題材でもあった。イスラーム以前のジャーヒリーヤ時代から、ガザル(恋愛詩)やナスィーブ(恋愛叙情詩)が作られていた[注釈 8][24]。イスラーム世界では純愛を尊ぶ伝統があり、手の届かない相手や、許されぬ事情で会えない相手に対して恋愛を謳う詩歌がアラビア語やペルシア語で数多く作られた[注釈 9][26]。
イブン・ハズムに先行するアンダルスの恋愛作品では、初期の代表としてイブン・アブド・ラッビヒ(860年–940年)の詞華集『唯一の首飾り』が知られている。恋愛論としては、ムハンマド・イブン・ダーウド(868年-910年)による『花の書』がある。これは50章の詩文選で、アラブの恋愛詩を多数収録している[27][28]。イブン・ハズムの同世代としては、ウマイヤ朝の王女で詩人でもあるワッラーダ(994年-1091年)と詩人イブン・ザイドゥーン(1003年-1071年)の相聞歌も有名である[29]。
30章は大きく4つのグループに分かれており、イブン・ハズム自身が解説している[31]。
書簡体を使った洗練された随筆であり、アラビア語でリサーラーと呼ばれる形式にもとづいている[33]。恋愛のエピソードは、基本的に著者自身の体験か、同時代の出来事から選ばれている。イスラーム以前のジャーヒリーヤ時代の遊牧民をはじめとする過去の伝承は収録されておらず、その理由については、伝承のたぐいはあまりにも多く、それら借り物の装いで身を飾りたくないという表現をしている[34]。
第1章において、愛が含む種々相はきわめて崇高で、筆舌につくしがたいほどに繊細である述べている。愛の原因は肉体的な美しさではなく、魂が結合しようとするからであり、そのために外見によらないさまざまな愛が存在するとしている。例として、共通の目的によって生まれる愛、友人や知人の愛、仲間に対する愛、親族関係の愛、秘密を分かち合う愛、欲望を満たす愛などが挙げられており、引きつけ合う魂を磁石にもたとえている。イブン・ハズム自身はムスリムだが、キリスト教徒の友人も登場し、宗教を超えた交友が記されている。愛は宗教によって否定されず、法によって禁じられもしないと論じた[35]。
性別に関する意見も述べられている。イブン・ハズムの時代には、「欲望を抑えられるのは男性だけで、女性は欲望を抑えられない」という意見が多かったが、彼自身は欲望に男女差はないと論じた[36]。イスラーム世界の文芸ではしばしば男性の同性愛が題材になり、特に年長者と少年の関係が多い。本書でも同性愛のエピソードが記されており、イブン・ハズム自身の体験も含まれている[37][38]。ただしイスラーム法では男色そのものは禁じられており、イブン・ハズムは処罰を妥当としている[39]。
当時の文化水準や生活習慣もエピソードを通して描かれている。コルドバの宮廷では男女ともに高い教育を受け、詩歌や音楽は教養であるとともに恋愛の駆け引きでも重要だった[40]。恋愛の段階の中に恋文が含まれており、伝書鳩に恋文をつけたという話も出てくる。イブン・ハズム自身も侍女に文字を教わったと回想しており、読み書きが普及していたことがわかる[41]。また、ハンマーム(公衆浴場)の壁に描かれた女性の絵に恋するというたとえがあるため、古代ローマの公衆浴場の習慣がアンダルスに残っていたことがわかる[注釈 10][43]。本書のエピソードは、後世の文芸の恋愛描写にも影響を与えた(後述)。
書かれているエピソードのほとんどは、かつて繁栄した時代のコルドバである。本書の執筆時期には戦乱によって失われており、文章はノスタルジーや悲しみを含んでいる。第24章や第28章では、子供時代に住んでいた屋敷が荒廃して住む者がいないことや、多くの人々が殺害されたことを嘆いている。第27章でイブン・ハズムは、屋敷でともに育った奴隷の女性について語る。彼女に恋をしたが離れ離れになり、再会したときには彼女の身にふりかかった苦難によって見分けがつかないほど変わっていた。この体験をもとに、女性には丁寧かつこまめに接することが大事だと説いている[44][45]。
イスラームの法学者らは、心を惹かれる女性を見つめることはシャリーア(イスラーム法)で許されるかや、秘めた恋の秘密を守ることをキトマーンの義務とするべきか、といった問題も議論した[26]。イブン・ハズムも本書で神学や法学の知識を活かして、クルアーンをはじめとする聖典や、古代の思想、同時代の法学を参考にした。クルアーンの70章5節の他にも、旧約聖書からは『創世記』30章、『エレミヤ書』31章29節が引かれている[46]。古代ギリシアからはプラトンやヒポクラテス、フィレモンなどの意見を引いている[47]。イスラーム法学者の見解としては、マーリク派の創始者マーリク・ブン・アナスや、イブン・ハズム自身の師の意見などを引用している[48]。
多数の詩は、ほぼすべて著者の作品である。一部、ジャーヒリーヤ時代の詩集である『ムアッラカート』を取り入れた技巧的な箇所がある。当時の優れた詩人の条件として、ジャーヒリーヤ詩から同時代の詩にいたるまで精通していることがあり、イブン・ハズムの詩に関する知識の広さを表している。ただし、詩の多くは筆写の際に割愛されたことが明らかになっている(後述)。イブン・ハズム本人は詩作に自負を持っており、当時の史料によればアブー・ヌワースに匹敵したという記録もあるが、現在の学者の評価は分かれている。美しい表現と深みを賛辞する意見、著者が自負するほどではないという意見などがある[49]。
各エピソードには、イブン・ハズムの友人をはじめとして匿名の人々が多数登場する。実名になっているのは、名前を記しても害が及ばない人物、あまりにも有名な事件で隠す必要がない人物、話の種になることを求めている人物である[34]。実名では、以下のような人物が記されている。
ウマイヤ朝のカリフ:アブド・アッラフマーン3世、ハカム2世、ヒシャーム2世、ムハンマド2世、アブド・アッラフマーン5世[50]。ファーティマ朝のカリフ:アズィーズ、ハーキム[51]。詩人:アブー・タンマーム[52]、アブー・ヌワース[53]、ブフトゥリー[52]、ユースフ・ブン・ハールーン[54]。
イブン・ハズムは『鳩の頸飾り』を書いたあとも精力的に著述を続け、生涯を通して400におよぶ学術書を執筆した。イスラーム法学派においては少数派である厳格なザーヒル派に属しており、イスラーム、キリスト教、ユダヤ教を比較した『諸宗派・諸党派・諸分派についての諸章』や、法学に関する『伝承による装飾の書』、そのほか言語、倫理、歴史などに関して著述した[9][55]。
イブン・ハズムが望んだウマイヤ朝の再興は実現せず、政治の世界からは身を引いた。しかし彼は妥協しない姿勢のために論敵が多く、ほとんどの著書が生前のうちにセビリアで焼かれた[注釈 11][9]。『鳩の頸飾り』の存在も長らく忘れられていたが、1冊の写本によって現代まで伝わることになる。筆写した者の詳細は不明であり、書き込みによればヒジュラ暦738年ラジャブ月(1338年2月)に行われた[57]。筆写にあたって詩の多くを割愛して重要なものを残したと書いてあり、完本はいまだに発見されていない[58]。
本書が書かれたのちのタイファ時代は、諸王国の分立で政治的には不安定だったが、競争によって文化はさらに活発になった[注釈 12]。文芸の世界では俗語を取り入れるようになり、宮廷内の洗練された作品に代わって、多くの人々が創作できるようになった。ヘブライ文芸では、イブン・ハズムと同世代の文人シュムエル・イブン・ナグレーラ(993年-1056年)が変化をもたらした。ユダヤ教徒のイブン・ナグレーラは、ヘブライ語詩にアラビア語の要素を持ち込んだ[注釈 13][61]。イブン・ハズムののちの世代としては、イブン・クズマーン(1078年 - 1160年)が放浪生活の中で吟遊詩人として活動し、アラビア語詩にアンダルスの俗語を取り入れた[62]。
本書のエピソードは、後世の恋愛作品に影響を与えた。第11章では恋人の使者の例として、女医、瀉血師、行商人、骨董仲買人、髪結師、泣き女、歌い女、占い師、御用聞き、糸紡ぎ女、機織女などをあげている。恋の使いをする女性というテーマは、それ自体で文芸の1ジャンルとなった[30]。
本書の20章では、愛の成就について「新たな生」という表現を使っている。写本が公開されて以来、この思想がダンテ(1265年-1321年)と関係があるかどうかが議論となっている[63]。イブン・ハズムののちに、アンダルスのイブヌル・アラビー(1165年-1240年)が恋愛詩集『熱愛の解釈者』を著しており、一人の女性との出会いを通した形而上的な愛の成就が書かれている[注釈 14]。こうした愛についての思想の系譜が、ダンテの『新生』や『神曲』に影響を与えたという説もある[注釈 15][66][67]。
17世紀オランダの大使としてオスマン帝国で生活したV・ヴェルナーが、現地で集めた中東諸国語の文献をライデン大学に寄贈した[注釈 16]。その中に『鳩の頸飾り』写本も含まれており、19世紀に同大学の東洋学者ラインハルト・ドズィーによって価値を見出された。ドズィーはアンダルス研究の専門家であり、著書『スペイン・ムスリム史』(1861年)に部分訳を掲載したところ、各国の研究者から注目を集める。部分訳はドイツ語に訳され、スペイン語への完訳も計画された。スペイン語訳は研究者の他界によって中断するが、ロシアの東洋学者D・K・ペトロフが1914年にアラビア語版を公刊してテクスト研究が進展した。1931年のアロイス・リチャード・ニークルの英語訳でさらに注目され、訳書が増えていった[注釈 17][70][69]。日本語訳はイスラーム学者の黒田壽郎が翻訳し、『鳩の頸飾り 愛と愛する人々に関する論攷』という書名で1978年に出版された。日本語訳の底本には、カイロ大学のT・A・マッキーが原典校訂をしたアラビア語版が用いられている[71]。
現存するイブン・ハズムの学術的な代表作は『諸宗派・諸党派・諸分派についての諸章』であるが、本書はそれよりも有名になった[10]。
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