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戦国時代から江戸時代前期の武将。黒田氏の家臣。黒田職隆の三男。母は神吉頼氏の娘(-1582.3.13、継室)。修理亮 ウィキペディアから
黒田 利則(くろだ としのり)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。黒田氏の家臣で、黒田二十四騎、黒田八虎の一人。
永禄4年(1561年)3月4日、黒田職隆の三男として播磨国姫路で生まれる[1]。異母兄に黒田孝高(如水)などがいる。
天正5年(1577年)より羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕え、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに参戦する。功名を立て、その後は羽柴秀長に転仕する。
天正15年(1587年)、九州平定に秀長軍として従軍。この頃、周防国山口でキリシタンの洗礼を受ける。兄・孝高が豊前国を拝領すると黒田家臣となり、2,000石を支給される[1]。文禄元年(1592年)の文禄の役では侍大将として従軍。一旦帰国後に養心と号している。慶長の役の際にも旗本備として参加している。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの際には、豊前国中津城の守備に当たる[1]。その後、甥の黒田長政が福岡藩主になると、1万2,000石に加増され、宗像郡津屋崎に置かれた[1]。また、兄・孝高の死後、孝高の肖像画を崇福寺に奉納した。
慶長17年(1612年)3月5日に死去した[1]。享年52。法名は宗源院殿華翁養心大居士[1]。那珂郡市ノ瀬村の山上に葬られた[1]。
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