トップQs
タイムライン
チャット
視点
「邪馬台国」はなかった
ウィキペディアから
Remove ads
『「邪馬台国」はなかった』(やまたいこくはなかった)は、邪馬台国をテーマにした古田武彦の著書。副題は「解読された倭人伝の謎」である。
Remove ads
概要
要約
視点
1971年(昭和46年)に朝日新聞社から単行本版が刊行された[1]後、1977年(昭和52年)に角川文庫(角川書店)に収録され[2]、1992年(平成4年)に朝日文庫(朝日新聞社)に収録され[3]、2010年(平成22年)に「古田武彦・古代史コレクション」の一冊としてミネルヴァ書房から刊行された[4]。古田武彦が45歳のときの著書であり、古田の古代史の分野での最初の単行本であり、「古田古代史学の出発点」とされる[5]。同人のこれに続く日本古代史についての著書である『失われた九州王朝――天皇家以前の古代史――』及び『盗まれた神話――記・紀の秘密――』と合わせて「古田武彦古代史学三部作」と呼ばれている[6][7]。当時古代史の専門家から在野の研究者までさまざまな人物が数多くの著書を出していた邪馬台国論争のなかでも松本清張の『古代史疑』、宮崎康平の『まぼろしの邪馬台国』、原田大六の『実在した神話』等と並んで広く話題になり、いわば「一世を風靡した」書物である。
本書の前半で古田が繰り広げた「魏志倭人伝に書かれている国名は『邪馬臺国』ではなく『邪馬壹国』である」とする説は、1969年(昭和44年)に刊行された『史学雑誌』第78巻第9号に掲載された同人の論文「邪馬壹国」で展開されたもの[8]であり、本書の後半で繰り広げられた原文改訂批判や「短里説」等の主張も史学雑誌に掲載するために執筆された論文「続・邪馬壹国」で述べられたものである[9]。そのため古田武彦の主張に関しては専門家の間では取り上げられないことが多い[10]。中で、本書において古田が示した学説については古田のこの後に続く多くの書籍に書かれているさまざまな主張と異なり専門家からの具体的な反論が比較的多く存在しており、古田がそれに再反論する形で論争を繰り広げている。
本書の題名について、当初古田は上記論文と同じ『邪馬壹国』とすることを考えていたが、出版社側の担当者より現在のタイトル『「邪馬台国」はなかった』にすることを提案され、古田は提案されたタイトルを刺激的=センセーショナルなものだとは考えたものの、「ある意味で本書の主張の本質的な部分をよく表している」と考えて同意したとしている。この、「なかった」というフレーズはその後古代史学などの世界で既成概念の否定を打ち出し続けた古田によって、
- 「その時「雄略」はいなかった」『関東に大王あり――稲荷山鉄剣の密室――』
- 「遣隋使はなかった」『市民の古代 第3集』1981年(昭和56年)収録講演
- 『「姥捨て伝説」はなかった――旅は道づれ夜(よ)は歴史(ヒストリー)――』新風書房、2002年(平成14年)
- 「磐井の乱」はなかった 『古代に真実を求めて 第八集』 2005年(平成17年)収録講演
- 「釈迦三尊」はなかった 『古代に真実を求めて 第九集』 2006年(平成18年)収録講演
などの形でこれ以後の著書・論文・講演のタイトル等にしばしば使われることになり、古田の論敵である安本美典によっても『「邪馬壱国」はなかった』や『「古代九州王朝」はなかった』などの形でパロディ的に使用された。さらに2006年(平成18年)から2009年(平成21年)まで古田によって「古田武彦直接編集」を謳って発行された論文誌では、そのものずばりの『なかった――真実の歴史学――』というタイトルを使っている。
Remove ads
本書の構成
- ″邪馬一国のすすめ″
- はじめに
- 序章 わたしの方法
- 第1章 それは「邪馬台国」ではなかった
- 第2章 いわゆる「共同改定」批判
- 第3章 身勝手な「各個改定」への反論
- 第4章 邪馬壹国の探究
- 第5章 「邪馬壹国」の意味するもの
- 第6章 新しい課題
- あとがき
朝日文庫版ではこの後に、
- 「補章 二十余年の応答 朝日文庫版あとがきに代えて」
が、さらに古代史コレクション版では朝日文庫版の補章に加えて
- 「日本の生きた歴史(一)」[11]
がこの後に補章として書き加えられている。
脚注
書誌情報
関連文献
関連項目
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads