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アッピウス・クラウディウス・プルケル (紀元前185年の執政官)

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アッピウス・クラウディウス・プルケルラテン語: Appius Claudius Pulcher紀元前2世紀、生没年不詳)は、共和政ローマ政務官紀元前185年執政官を務めた。父は同名のアッピウス・クラウディウス・プルケル、兄弟にはプブリウス・クラウディウス・プルケルがいる。

概要 アッピウス・クラウディウス・プルケル Ap. Claudius Ap. f. P. n. Pulcher, 出生 ...
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経歴

紀元前196年ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス配下のトリブヌス・ミリトゥムとしてギリシアに赴き[2]、翌年からはレガトゥスとして紀元前194年まで留まる[3]

紀元前191年、プロプラエトルのマルクス・バエビウス・タンピルス配下のレガトゥスに彼の名があり、その後執政官マニウス・アキリウス・グラブリオの指揮下に入った[4]。グラブリオはセレウコス朝アンティオコス3世テルモピュライで勝利し、続いてアエトリア同盟に遠征している[5]

紀元前188年、外国人担当プラエトルに就任[6]

紀元前185年執政官に選出されると、リグリアで勝利して帰国、翌紀元前184年の執政官を決める選挙で兄弟のプブリウスをサポートした[1]。翌年、ギリシア諸国への使節団の団長として、まずマケドニアピリッポス5世と会談し、アエトリア同盟やクレタ島にも赴いた[7]

紀元前183年スパルタからの4組の使節団がやってきたため、フラミニヌス、クィントゥス・カエキリウス・メテッルスと共にそれに対応している[8]ポリュビオスによれば、ペロポネソス半島で活動した経験があるため、元老院によって選出され、対応を任されたという[9]

紀元前174年ガイウス・ウァレリウス・ラエウィヌスマルクス・ポピッリウスらと共にアエトリア同盟に派遣され、激化する派閥抗争の仲介を試みたが失敗した[10]。翌年にもテッサリアとペライボイ族の仲裁役を務めている[11]

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家族

出典

参考文献

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