トップQs
タイムライン
チャット
視点

アドルフ・ダニエル・エドワード・エルマー

アメリカの植物学者 ウィキペディアから

Remove ads

アドルフ・ダニエル・エドワード・エルマー(Adolph Daniel Edward Elmer; 1870年6月14日-1942年)はアメリカ合衆国植物学者植物収集家である[1]。主にフィリピンで活動し、彼が同地で採取した植物は自他問わず数多くの新種として記載が行われたが、旧日本軍フィリピンへ侵攻した際に民間人用の収容所へ入れられ、そこで命を落とした。

概要 Adolph Daniel Edward Elmerアドルフ・ダニエル・エドワード・エルマー, 生誕 ...
Remove ads

生涯と業績

エルマーは1870年6月14日にアメリカ合衆国のウィスコンシン州ヴァン・ダインVan Dyne)で[2][1]父ジェイコブ・ヴァン・ダイン(Jacob Van Dyne)と母アルヴィナ・エルマー(Alvina Elmer)のもとに生まれた[2]。1899年にワシントン州立大学を卒業し、1903年[3](あるいは1904年)にはスタンフォード大学修士号英語版を得た[4]。1896年から修士号を得るまでの間はアメリカ合衆国西部(特にカリフォルニア州)で数多くの植物を採取していた[5][注 1]が、やがて植物の新種記載も行い始め、雑誌 Botanical Gazette の若い巻号に彼の名が見える[3](例: 1903年の第36巻におけるイネ科Festuca idahoensis など[7])。エルマーは1904年以降には当時米国の占領下にあったフィリピンマニラへと赴いたが、最終的に亡くなるまで同地に定住することとなった[4]。1904年から1927年にかけてフィリピンで大規模な植物採取活動を行い、ボルネオ島でも同様の活動を行った[1]。イギリスの生物学者アルバート・ウィリアム・クリスチャン・セオドア・ヘレAlbert William Christian Theodore Herre)によると、米国の植物学者エルマー・ドリュー・メリルはアドルフ・ダニエル・エドワード・エルマーのことを第二次世界大戦が開戦するまでフィリピンや東南アジアで働いた植物収集家としては最も優れた人物であると考えており、その証明となるのが Merrill (1929) である[3]。エルマーは1906年から1939年にかけて刊行された雑誌 Leaflets of Philippine Botany の編集者でもあり、その中で多くの植物(1500を超える分類群[5])の記載を行った[1]

Remove ads

アドルフ・ダニエル・エドワード・エルマーは妻エマ・オスターマン・エルマーEmma Osterman Elmerネブラスカ州アーリントンArlington)出身、1902年に彼と結婚[2]; 1867-1956)と長年フィリピンで暮らしており、ある時帰国の準備をしていたが、その矢先に真珠湾攻撃(1941年)が起こり[8]、結局同地に留まりそのまま旧日本軍による侵攻に巻き込まれることとなった。エルマーは侵攻開始から1年にも満たない1942年の4月17日[1][3]マニラサント・トーマス収容所[注 2][4]亡くなった。ただしヘレが同収容所から解放された友人から伝え聞いた話によると、彼が亡くなったのは同年7月のことであったとされる[4]。死因は自然死であった[5]フィリピン国立植物標本館には彼の非公開の模式標本も所蔵されていたが、旧日本軍による侵攻の際に失われた[5]。エマも抑留されていたものの生き延びた[8]

Remove ads

遺産

以下の例のように、エルマーが採取した標本を模式標本(タイプ)として記載された種がいくつも存在する。

脚注

参考文献

関連文献

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads