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アルプテギーン
ガズナ朝の建国者 (925?–963) ウィキペディアから
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アルプテギーン(ペルシア語: الپتگین Alp Tegīn、925年?[1] - 963年[1])は、ガズナ朝の建国者(在位:962年 - 963年)。サーマーン朝のグラーム(テュルク系の軍人奴隷)の出身[2]。
生涯
アルプテギーンはサーマーン朝の宮廷で近衛兵を務めており[1]、ヌーフ1世治世下には軍のアミールとなった[5]。そして、ヌーフの子でアミールのアブド・アル=マリク1世治世下では、彼の近衛隊長に取り立てられた[1][6]。アルプテギーンは宮廷で強い発言力を持ち、アブー・アリー・バルアミーを宰相の地位に推薦した[1]。サーマーン朝に仕えていた時代のアルプテギーンが500の村、1,000,000頭の羊、馬・ラバ・ラクダ100,000頭、騎兵30,000を所有し、国内各地の主要都市に宮殿、庭園、ハンマーム(浴場)、宿舎を持っていたことが、セルジューク朝のニザームルムルクが著した『統治の書』に記されている[1]。
アブド・アル=マリク1世はアルプテギーンを宮廷に置くことを望まず、961年(962年[1])に彼をサーマーン朝の軍人の最高位であるホラーサーン地方の総督に任命した[1]。同年にアブド・アル=マリク1世の弟であるマンスール1世がアミールに即位することとなった。アルプテギーンは、アブド・アル=マリク1世の息子が先代の後を継ぐものと考え、マンスールの即位に反対したため、ヌーフ2世によってホラーサーン総督の地位を解任された[1][4]。
配下らを連れてバルフに逃れたアルプテギーンはフルムへ向かい、同地の峡谷において、ブハラサーマーン朝が派遣した討伐隊に勝利し[5]、さらに南下してガズナに向かった。ガズナの支配者であるアブー・アリー・ラウイークを追放して町を占領し、独立した政権(ガズナ朝)を建てた。
独立後は外征に積極的な姿勢を示さず[6]、963年に没した。
アルプテギーンの没後は、彼の奴隷であったサブク・ティギーンが後継者となり、以降世襲となったため、史料ではサブク・ティギーンがガズナ朝の創始者として扱われる[4]。
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脚注
参考文献
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