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アレクサンドル・ベグロフ (画家)
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アレクサンドル・カルロヴィッチ・ベグロフ(ロシア語: Александр Карлович Беггров, ラテン文字転写: Alexander Karlovich Beggrov、1841年12月29日 - 1914年4月27日)は、バルト・ロシア人の父親を持つロシアの画家である[1]。1874年までロシア海軍で働き、海洋画やサンクトペテルブルクの都市景観図などを描いた。

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略歴
サンクトペテルブルクで生まれた。父親のカール・ベグロフ(Карл Петрович Беггров: 1799-1875、ドイツ語名:Karl Joachim Beggrow)はリガ生まれのバルト・ドイツ人の画家、版画家で1818年からサンクトペテルブルクで美術を学び、サンクトペテルブルクで風景版画、肖像版画で成功した人物であった。
1853年から、サンクトペテルブルクの工学学校と海軍の工兵・砲兵学校で学んだ。初期には、フランスの人気のある海洋画家のウジェーヌ・イザベイ(1803-1886)の影響を受けていた。アマチュア画家として油彩画や水彩画を描いた。
1863年に工兵・砲兵学校を卒業した後、機関少尉としてバルチック艦隊に入隊し、フリゲート艦に勤務した。1868年には乗船がデンマーク沖で沈没する経験もするが、多くの乗員とともに生還した。有名な海洋画家の海洋画家アレクセイ・ボゴリュボフ(1824-1896)はこの事故を題材に作品を描く参考にするためにベグロフに、乗船の難破の2枚の絵を描くよう依頼した[2]。ボゴリュボフと知り合ったことで、サンクトペテルブルクの帝国芸術アカデミーで非学位学生として学ぶことになり、風景画家のミハイル・クロト(Mikhail Clodt)に学んだ[3][4]。
1870年まで、海軍本部の製図部門で働き、1871年から1872年は、ロシア大公アレクセイ・アレクサンドロヴィチ(Grand Duke Alexei Alexandrovich of Russia)の親善大使としての日本とアメリカ訪問を含む世界一周航海の艦隊に同行した。
1874年に海軍を退役し、パリに留学し、1873年からフランスに滞在していたアレクセイ・ボゴリュボフや、有名な画家レオン・ボナに学んだ。フランスで、イリヤ・レーピンやコンスタンチン・サヴィツキーといった「移動派」で活動することになる画家たちと知り合い、1874年から「移動派」の展覧会に出展した。1875年、父親が亡くなったためロシアに戻り、1879年は海軍のフリゲート艦でクロンシュタットからギリシャへの航海に参加したその後、約2年間フランスに滞在した。その後、ロシアに戻り、サンクトペテルブルク近郊のガッチナに定住した。1903年に妻が亡くなり、晩年は病気に悩まされ、1914年8月に自殺した.[4]。
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作品
- フリゲート艦の甲板(1884)
ロシア海軍中央博物館 - 1882年7月のクロンシュタットでのドイツ皇帝との会見(1888年)
ロシア海軍中央博物館- - ロシア海軍の「Standart」(1892)
参考文献
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