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アレクセイ・ボゴリュボフ
ロシアの画家 (1824-1896) ウィキペディアから
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アレクセイ・ペトロヴィチ・ボゴリュボフ(ロシア語: Алексей Петрович Боголюбов, ラテン文字転写: Alexey Petrovich Bogolyubov、1824年3月4日 - 1896年2月3日)は、ロシアの画家である。海洋画や風景画を描いた。
略歴
ノヴゴロド近くの村に生まれた。父親は地主の息子で、退役した将校で、母親は有名な作家で教育者のアレクサンドル・ラジーシチェフの娘であった[1]。アレクサンドル・ラジーシチェフは農奴解放などを訴えて流刑になり後に許された人物である。
父親を早く亡くした後、少年海軍士官学校に入学し1841年に卒業した。ロシア海軍に勤務し、仕えた海軍の高官に絵の才能を認められて、1849年から、サンクトペテルブルクの帝国芸術アカデミーに入学することになり、風景画家のマクシム・ヴォロビョフ(Maksim Vorobyov)に学んだ。海洋画家のイヴァン・アイヴァゾフスキー(1817-1900)の作品から影響を受けた。1853年にアカデミーを卒業すると海軍士官を退役し、海軍本部付きの画家として働いた。
1854年から7年間ヨーロッパを旅し、1854年から1856年の間と、デュッセルドルフで、アンドレアス・アッヒェンバッハに学んだ。スイスの画家、アレクサンドル・カラム(1810 -1864)の指導も受け、パリではウジェーヌ・イザベイ(1803- 1886)の工房で学んだ。1859年から1860年にかけてはデュッセルドルフの芸術家協会「マルカステン」の会員になった。
1860年にロシアに帰国し、ヴォルガ川流域を旅して作品を描き、ピョートル大帝とスウェーデン軍の戦いを描いた歴史画も制作した。その後再び数年間、デュッセルドルフで活動した。1871年に、ロシア芸術アカデミーの会員に選ばれ、教授に任命された。1870年代以降、「移動派」の画家たちとの交流を深め、「移動派」の役員にも選ばれたが、移動派の中の社会思想とは距離を置き続けた[1]。
心臓病のために、1873年からは主にパリで暮らし、パリの住まいは作家のイワン・ツルゲーネフや、画家のイリヤ・レーピン、ヴァシリー・ポレノフ、ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン、彫刻家のマルク・アントコリスキーといった芸術家たちが訪れた[1]。
1885年にヨーロッパロシアの南東部のサラトフに祖父の名前を付けた美術館(ラディシチョフ美術館)を開設した。この美術館はモスクワのトレチャコフ美術館より7年早く一般に公開された美術館であった[2]。革新的な思想の祖父の名を付けるために当局と争わなければならなかった。
1896年にパリで亡くなった。
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作品
- 夕暮れ時のサンクトペテルブルク(c.1850)
- 難破船 (1850)
- スモーリヌイ修道院 (1852)
- 1807年のロシアとトルコ海軍の戦い(Battle of Athos)(1853)
- 夕日(1856)
- アントウェルペンの港 (1854)
- ヤロスラヴリの街のイースターの行進 (1863)
- モスクワの眺め (1878)
- サンクトペテルブルクのミハイロフスキー城と水路 (c.1880)
- 無題 (1880)
脚注
参考文献
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