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アングレームの領主一覧

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アングレーム伯(comtes d'Angoulême)およびアングレーム公(ducs d'Angoulême)は、フランス西部のアングレームの領主である。アングレームはもともとカロリング帝国アキテーヌ王国の一部であった。カール大帝の継承者のもとで、在地のアングレーム伯は独立状態にあり、1308年までフランス王国に統合されなかった。ブレティニー条約(1360年)により、当時アングレーム伯が支配していたアングモアの地は、イングランドの領土としてエドワード3世に割譲された。1371年、アングレームはフランス王家の分家であるベリー公の封土となり、その後オルレアン公ルイの手に渡った。これ以降、アングレームはアングレーム伯フランソワがフランス王フランソワ1世となる1515年まで、ヴァルワ=オルレアン家が保持した。その後、アングモアは公領としてフランス王家の領地に統合された。

アングレーム伯

ギレム家

  • トゥルピオ(トゥルピオン)(839年 - 863年)[1]
  • エメノン・ド・ポワティエ(863年 - 866年)[2] - トゥルピオの弟
    • エマール・ド・ポワティエ(916年 - 926年)[3][4] - エメノンの息子

タイユフェル家

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アングレーム伯の紋章
  • ヴュルグラン1世(866年 - 886年)[4][5] - 西フランクシャルル2世により任命される
  • オードゥアン1世(886年 - 916年)[4][3] - ヴュルグラン1世の息子
  • ギヨーム2世("タイユフェル"1世)(926年 - 945年頃)[4][6] - オードゥアン1世の息子
  • エマール2世(945年以降 - 952年以前)[注釈 1] - ギヨーム2世の息子
  • ベルナール(945年以降 - 952年以前)[4][7] - ギヨーム1世の息子(ギヨーム1世はヴュルグラン1世の息子でオードゥアン1世の弟)
  • アルノー1世(950年以降 - 952年以前)[4][7] - オードゥアン1世の息子
  • ギヨーム3世(952/64年 - 973/5年以前)[4][7] - ベルナールの息子
  • ラヌルフ(973/5年 - 975年)[4][7] - ベルナールの息子
  • リシャール単純伯(975年?)[注釈 2] - ベルナールの息子
  • アルノー2世(975年 - 988年)[8] - ギヨーム2世の息子
  • ギヨーム4世(タイユフェル2世)(988年 - 1028年)[8] - アルノー2世の息子
  • オードゥアン(2世)(1028年 - 1031年)[8][9] - ギヨーム4世の息子
  • ジョフロワ(1031年 - 1047年)[8][10] - ギヨーム4世の息子
  • フルク(1047年 - 1087年)[8][10] - ジョフロワの息子
  • ギヨーム5世(タイユフェル3世)(1087年 - 1120年)[10] - フルクの息子
  • ヴュルグラン2世(1120年 - 1140年)[10] - ギヨーム5世の息子
  • ギヨーム6世(タイユフェル4世)(1140年 - 1179年)[注釈 3] - ヴュルグラン2世の息子
  • ヴュルグラン3世(1179年 - 1181年)[11] - ギヨーム6世の息子
  • ギヨーム7世(タイユフェル5世)(1181年 - 1186年)[11] - ギヨーム6世の息子
  • エマール3世(1186年 - 1202年)[11][12] - ギヨーム6世の息子
  • イザベル(1202年 - 1246年)[11] - エマール3世の娘

リュジニャン家

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リュジニャン家の紋章

フランス王家

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アングレーム公

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ヴァロワ=オルレアン=アングレーム家のアングレーム公の紋章
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注釈

  1. エマール2世はギヨーム2世の2人の息子のうちの1人であるが、エマール2世がアングレーム伯であったことは父の遺書のみが根拠である。Debord (pp. 99–103) は、エマール2世がアングレーム伯となったと見られるとしているが、Bourgeoisはこの可能性を否定している (pp. 387, 392)。ギヨーム2世の遺書についてはPaul Lefrancq, ed., Cartulaire de l’abbaye de Saint-Cybard (Angoulême: Imprimerie Ouvrière, 1930), #222を参照。
  2. Debord (pp. 99–103) はリシャールを除外しているが、Bourgeois (pp. 387, 392–93) はリシャールを加えている。リシャールはアデマール・ド・シャバンヌの年代記にのみ見られ、もしリシャールが支配したとすれば、それは975年であったとみられる(Ademari Cabannensis opera omnia pars 1: Chronicon, ed. Pascale Bourgain, Richard Landes, and Georges Pon, Corpus Christianorum Continuatio Mediaevalis 129 (Turnhout: Brepols, 1999), III.28, 148.)。
  3. Debordはギヨーム6世の死を1180年としており、ヴュルグラン3世の支配の開始を同年としている(p. 212)。しかし、Rowan Charles Watsonはこれに同意していない("The Counts of Angoulême from the 9th to the Mid 13th Century" (PhD diss., University of East Anglia, 1979), p. 453.)。これは特許状に基づいており(Watson, pp. 353–62)、ジョフロワ・デュ・ブロイの年代記はギヨーム6世は1179年に死去し、ヴュルグラン3世は2年間のみ支配したとしている("Chronica Gaufredi coenobitae monasterii D. Martialis Lemovicensis, ac prioris Vosiensis coenobii," in Novae bibliothecae manuscriptorum librorum tomus secundus: rerum aquitanicarum. . . . ed. Philippe Labbe (Paris: Sebastian Cramoisy, 1657), pp. 325–26.)。
  4. ユーグ10世と他のリュジニャン家の成員については、Léopold Delisle, "Chronologie historique des Comtes de la Marche issus de la maison de Lusignan," Bulletin Société Archéologique et Historique de la Charente 4, no. 4 (1867): 3–16を参照。最初は以下の付属書として刊行された:"Mémoire sur une lettre inédite adressée à la reine Blanche par un habitant de La Rochelle," Bibliothèque de l’École des chartes 4th series, 2 (1856): 537–45.

脚注

参考文献

関連項目

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