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イヴァン・アイヴァゾフスキー
ロシアの画家 ウィキペディアから
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イヴァン・コンスタンチノヴィチ・アイヴァゾフスキー(ロシア語: Ива́н Константи́нович Айвазо́вский, アルメニア語: Հովհաննես Այվազյան, アルメニア名:ホヴァネス・アイヴァジヤーン、1817年7月29日 - 1900年5月2日[1])は、クリミアのフェオドシヤ生まれのロシア帝国の画家。ウクライナの画家としても認識され[2]、民族的にはアルメニア人である。「アイヴァゾーフスキイ」[3]、「アイワゾフスキー」[4]、「アイバゾフスキー」[5]などとも表記される。海洋画の巨匠として知られ、ウィンズロウ・ホーマーと並ぶ海洋画家であり、6000点以上の作品を残した[6]。
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生涯
アイヴァゾフスキーは1817年7月29日、ロシア帝国のタヴリダ県(現クリミア)フェオドシヤで、貧しいアルメニア人商人の家庭に生まれた。家族は1812年にガリツィアからクリミアに移住し、その祖先はオスマン帝国支配下の西アルメニア出身だった[6]。幼少期から絵画の才能を示し、10歳で街のコーヒー店で働きながら、壁に炭で絵を描いていた。この才能を地元の建築家ヤコフ・コフが認め、最初の鉛筆と紙を提供。コフの紹介でフェオドシヤの市長アレクサンドル・カズナチェエフに見出され、シンフェロポリのギムナジウムに入学した[6]。
1833年から1837年まで、ペテルブルク美術アカデミーで学び、風景画家のマクシム・ヴォロビヨフ、フランス人海洋画家のフィリップ・タンネール、戦闘画家アレクサンドル・ザウエルヴァイトに師事。カルル・ブリューロフの影響も受け、1837年に金メダルを得て卒業[6]。卒業後、初期の海洋画や風景画で得た賞金でクリミアに戻り、黒海沿岸で肖像画家として活動。その後、1840年にローマ、ナポリ、ソレント、ヴェネツィア、パリ、ロンドン、アムステルダムを巡るヨーロッパ旅行を行い、技術を磨いた。
1845年、オスマン帝国のスルタンアブデュルメジト1世に招かれイスタンブールを訪問。以後、1890年までに計8回同市を訪れ、アブデュルアズィズ、アブデュルハミト2世ら歴代スルタンから作品を委嘱された。30点以上の作品がドルマバフチェ宮殿に展示されている[6]。ロシア海軍からも長年にわたり海洋画を委嘱され、1844年にペテルブルク美術アカデミーの院士、1887年に名誉会員に選出された。また、アムステルダム、ローマ、パリ、フィレンツェ、シュトゥットガルトの美術アカデミーの名誉会員にもなった[6]。
晩年はフェオドシヤに定住し、自身の邸宅とアトリエを拠点に創作を続けた。1880年にフェオドシヤ絵画ギャラリーを設立し、美術学校や考古学博物館の開設、フェオドシヤへの水道・鉄道・港の建設資金を提供するなど、故郷の発展に貢献。1900年5月2日、フェオドシヤで死去する直前まで、絵画『トルコ船の爆発』を制作していた[6]。
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人物
アイヴァゾフスキーは海洋画の巨匠として知られ、ロマン主義の初期作品から後期のリアリズム的アプローチまで幅広いスタイルで活躍した。海洋画だけでなく、戦闘画、肖像画、宗教画、神話画、動物画、ウクライナやクリミアの風景画も手掛けた[6]。彼の作品は世界中の博物館や個人コレクションに収蔵され、120以上の展覧会(半数以上が個展)に参加した[7]。
イヴァン・クラムスコイは彼を「第一級の星」と評し、美術史における国際的な重要性を強調した[8]。彼はロシア美術を代表する画家の一人として、国際的に高い評価を受ける[9]。アイヴァゾフスキーはコレクター、メセナとしても活動し、フェオドシヤの文化振興に貢献。アントン・チェーホフは彼を「親しみやすいアルメニア人と欲深い主教の融合」と形容し、複雑な性格と豪華な生活を描写した[6]。
彼の兄ガブリエル・アイヴァゾフスキーは、アルメニア使徒教会の司教で歴史家であり、アイヴァゾフスキー家はアルメニア文化に深く根ざしていた。アイヴァゾフスキー自身、作品にアルメニア文字で本名を記入し、アルメニア人としてのアイデンティティを保持した。
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作品
アイヴァゾフスキーは6000点以上の作品(油彩、水彩、素描)を残し、その大半が海洋をテーマとしている。初期のロマン主義作品(例: 『第九の波』、1850年)から、後期のリアリズム的海洋画(例: 『黒海』、1881年、『波の間で』、1898年)まで、幅広い表現を追求した[6]。戦闘画、クリミアやウクライナの風景画、ウクライナの民俗をテーマにした作品も多い。
代表作
アイヴァゾフスキーの海洋画は、劇的な光と動きで知られ、特に『第九の波』はロマン主義の象徴として国際的に評価される[10]。
- 海洋画
- 『第九の波』(1850年):ロマン主義の傑作で、荒れ狂う海を描く。
- 『黒海』(1881年):リアリズム的アプローチで黒海の力強さを表現。
- 『虹』(1873年):光と色の詩的な描写。
- 『波の間で』(1898年):晩年の大作。
- 戦闘画
- 『チェシュメの戦い』(1848年)
- 『ナヴァリノの戦い』(1848年)
- 『シノープの海戦』(1853年)
- 『ブリッグ「マーキュリー」の戦い』(1892年)
- クリミアの風景画
** 『ヤルタ』(1838年)
- 『グルズフの月夜』(1839年)
- 『クリミアのコーヒー店』(1847年)
- ウクライナの風景画・民俗画
- 『チュマキの夜のステップ』(1855年)
- 『ドニエプルの葦』(1857年)
- 『ウクライナの風景』(1868年)
- 『ウクライナの結婚式』(1891年)
- その他
- 『コンスタンティノープルとボスポラス海峡の景色』(1856年)
- 『カオス』(1841年、神話画)
- 『オレシチェトの丘の風車』(1860年、ウクライナの風景)
ギャラリー
国際的な評価とオークション
アイヴァゾフスキーの作品は国際的に高く評価され、オークションでの総売上は数百万ドルに達する。1994年に『ヴァリャーグの道』(1876年)がサザビーズで20万ポンド、2007年に別の作品が271万ポンド、2009年に『コロンブスのパロス出航』(1892年)がサザビーズニューヨークで159万ドルで落札された[11][12]。彼の作品はロシアの画家の中で最も贋作が多いとされ、市場価値の高さから偽造が問題となっている[4][13]。 2023年、メトロポリタン美術館はアイヴァゾフスキーを「クリミア自治共和国出身のウクライナ人画家」と再分類し、作品解説を更新した[14]。
コレクション
アイヴァゾフスキーの作品は世界中の美術館に収蔵されている。キエフ国立絵画ギャラリーには18点(油彩13点、素描5点)が所蔵され、うち『カプリ島の眺め』、『野原の丘』(1840年代)、『嵐』(1862年)が常設展示されている[15]。アイヴァゾフスキー国立美術館(フェオドシヤ)には彼の作品417点を含む約12,000点が収蔵されている[6]。
記念と遺産
アイヴァゾフスキーは故郷フェオドシヤやウクライナ、アルメニアで広く記念されている。以下はその主要な例:
- フェオドシヤ
- アイヴァゾフスキー国立美術館(1880年設立)は彼の邸宅を基盤とし、1930年にイリヤ・ギンツブルク作の記念碑(銘文:「フェオドシヤからアイヴァゾフスキーへ」)が設置された[6]。
- 1890年、フェオドシヤの水道整備に貢献した功績で、アイヴァゾフスキー設計の「アイヴァゾフスキー噴水」と記念碑(銘文:「偉大なアイヴァゾフスキーとその弟子たちへ」)が建立された[6]。
- 2016年、ロシア占領当局により同美術館から38点の作品がトレチャコフ美術館に違法に移動された[16]。
- その他の地域
- 記念コインと命名
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関連項目
- アイヴァゾフスキー国立美術館
- 単一アーティストの美術館一覧
- キンメリア派
- 南ロシア画家協会
脚注
参考文献
外部リンク
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