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マクシム・ヴォロビョフ
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マクシム・ニキフォロヴィチ・ヴォロビョフ(ロシア語: Макси́м Ники́форович Воробьёв, ラテン文字転写: Maksim Nikiforovich Vorobyov、1787年8月17日 - 1855年9月11日)は、ロシアの画家である。サンクトペテルブルクの帝国美術アカデミーで多くの画家に風景画を教えた。
略歴
ロシア北西部のプスコフで生まれた。父親は兵士を退役した後、帝国美術アカデミーの警備の仕事についていて[2]、マクシム・ヴォロビョフは10歳のころから、フョードル・アレクセーエフ(Fyodor Alekseyev: c.1753-1824)に風景画を学び、ジャン=フランソワ・トマ・デュ・トモンに建築を学んだ[3]。22歳になった1809年に、都市景観図を専門としたフョードル・アレクセーエフと中央ロシアの都を旅し、助手としてアレクセーエフの創作を助けた。
1813年から1814年の間は、ナポレオン戦争でロシア軍に同行しドイツとフランスを訪れた。1815年に帝国美術アカデミーの教師になり、亡くなるまでその仕事を続けた[2]。ヴォロビョフが教えた学生にはレフ・ラゴリオ(Lev Lagorioやミハイル・クロト(Mikhail Clodt)、アレクセイ・ボゴリュボフ、イヴァン・シーシキンらがいた。息子のソクラート・ヴォロビョフ(Sokrat Vorobyov: 1817-1888)も風景画家になり、教師の仕事を継いだ。1855年に
1820年には、ロシア皇帝ニコライ1世が派遣した外交使節団に加わりパレスチナを訪れ、キリスト教遺跡をスケッチし、中東の風景を描いた。
1828年からの露土戦争ではニコライ1世の従者として働き、皇帝の指示に従って戦場の情景を描き[3]、現ブルガリアのヴァルナの包囲戦などの情景を描いた。
1840年に妻を亡くした後、アルコール依存になり、創作活動は衰たので[2]、1844年から1846年の間はイタリアを旅した。1855年にサンクトペテルブルクで亡くなった。
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作品
- ベツレヘムの降誕教会(1835)
- 帝国アカデミー近くのスフィンクス(1835)
- 2人のアラビア首長を訪問
- ネヴァ川の日の出(1830)
- 落雷に撃たれた樫の木(寓意画)(1842)
- イタリアの風景(1847)
脚注
参考文献
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