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イーグル級哨戒艇
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イーグル級哨戒艇(Eagle class patrol craft)は、アメリカ海軍が使用した哨戒艇。1917年に駆逐艦より小型で、木製の駆潜艇よりも行動半径の大きな鋼船として、既存の駆潜艇の航続距離の短さ(速力10ノット (19 km/h; 12 mph) で約900マイル (1,400 km) )と燃費の改善を目的に開発された。
当初、「USS Eagle Boat No.XX」と言う呼称であったが、1920年に「PE-XX」という形式に改められている。第一次世界大戦における戦闘には参加しなかったが、ロシア内戦への介入戦争に使用されたものもあった[1]。大半の艇は戦間期に退役したが、PE-19・27・32・38・48・55・56・57は第二次世界大戦当時も現役で使用された[2]。
建造に当たっては、既存の造船所の多くが駆逐艦や大型の軍艦、大型商船建造に注力していたため、経験の浅い造船所でも迅速な建造を可能にすべく、設計の徹底した簡素化が行われた。
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計画
1917年6月、大統領ウッドロウ・ウィルソンは、ヘンリー・フォードをワシントンD.C.に招聘し、海事委員会への参加を要請した。ウィルソンは、フォード社が持つ大量生産技術で船の建造を大幅にスピードアップできると考えていた。Uボートの脅威に対抗するための対潜水艦用艦艇の必要性を知らされたフォードは、「必要なのは同型の艦艇を大量生産することだ」と答えた。
11月7日、フォードは海事委員に就任。海軍で計画されていた鋼製哨戒艇の計画を検討したフォードは、同一の設計にすることで艇を迅速に大量生産すること、また、レシプロ蒸気エンジンに代わり蒸気タービンを採用するよう要求した。しかし、フォードはこの2点以外は専門外の船体設計についてほとんど関与しなかった。
海軍長官ジョセファス・ダニエルズは、海軍の造船所には新しい船を建造するための空きがないため、フォード社に建造を引き受けられるかどうか尋ねた。フォードは同意し、1918年1月に100隻の建造を進めるように指示された。その後、イタリア海軍に供給するためにさらに12隻が追加された。
フォードは当時を、「単に私たちの生産原理を応用することで簡単に建造できると考えていた」と回想している[3]。
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建造
要約
視点
フォードの立てた建造計画はデトロイト郊外のルージュ川河畔に新たに造船所を設立し、大量生産技術と多くの労働力を用いて艇を工業製品として生産し、完成した艇は五大湖とセントローレンス川を経由して大西洋岸の軍港へ送るという革新的なものだった。
まず、フォード社のエンジニアが同社のハイランドパーク工場で実物大の模型を製作し、それを基にフォード社と海軍双方の技術者によって、初期設計段階での欠陥修正とリベットの配置が決定された。次にフォード社の生産部門によって建造工程の仕様が作成された [4]。
船体の組立工場は5ヶ月で完成し、1918年5月に一番艇が起工した。内蔵される機械と付属品は主にハイランドパーク工場で製作されたが、装甲板やその他の部品の多くはリバールージュ造船所のA棟で製造された[4]。当初、フォードは船も自動車のように連続した組立ラインで製造できると思い込んでいた。しかし、船の大きさからこれは難しく、 1,700フィート (520 m) のライン上に7つの組立エリアを設け、されに組立工場(B棟)に200フィート (61 m) の延長部分を設け、組立前の段階をサポートする方式を採用した[4]。イーグル級の建造工程は、フォード社の造船に関する経験不足のため様々な問題を抱えていた。たとえば、T型フォードでは使用されないアーク溶接で作られた船体の仕上がりが非常に悪く、海軍の監督官がフォード社の労働者に水密および油密隔壁では溶接を使用しないように要請したほどだった[4]。また、組立足場を組まず梯子を使用したことで、十分な力でボルトを締められず装甲版をしっかり固定することが出来ず[4]、装甲板と船体の間に金属片が残ってしまい、リベッターで板を引っ張って船体に密着させる作業ができなくなってしまった[4]。
イーグル級一番艇は7月11日に進水した。組立ラインと進水設備がつながっていなかったため、完成した200フィート (61 m) の船体はトラクターでゆっくりと牽引されて組立ラインから水際にある進水設備へと移動した。設備は高さ225フィート (69 m) の鋼鉄製で、船を乗せると自重で20フィート (6.1 m) 沈むように設計されていた。進水後、動力や武装・配線などの艤装が施される予定だったが、船体内のスペースが狭いため、すぐに頓挫した[4]。
イーグル級の建造計画はフォードの掲げた大量生産の理念に反する結果となった[4]。1918年3月1日にフォードと海軍の間で締結された契約では、「7月中旬までに1隻、8月中旬までに10隻、9月中旬までに20隻、それ以降は毎月25隻」と毎日1隻の船が完成する計算で12月1日までに合計100隻の船の引き渡しを予定していた[4]。しかし最初の7隻は、1918年末まで完成せず、後続の船は、燃料区画からの油漏れなどの問題に悩まされていた。労働力を7月までに4,380人、その後8,000人に増員したにもかかわらず、この状況は続いた。主な原因は、初期段階におけるフォードの過度の楽観主義と現場の労働者と管理職の経験不足だった。 1918年11月11日の休戦協定の調印により、一度は100隻から112隻に引き上げられていた契約数は11月30日60に削減された。7隻が1918年に就役し、残りの53隻は1919年に就役した。
1918年12月、上院議員ヘンリー・カボット・ロッジがイーグル級建造計画の問題を指摘した。それを受けて開かれた公聴会で、海軍当局者は計画を必要な実験であるとし、フォード社の得た利益も僅かなものであると擁護した。しかし、歴史家のデビッド・ハウンシェルは、「イーグル級建造計画は、戦時中であったことを考慮しても現在の基準では成功したとは見なされない」と述べており、今日では科学技術史において、表面的に似ていても根本的に異なる分野間において知識と技術を相互移転することの難しさを示す事例となっている[4]。
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軍歴
「イーグル・ボート」という呼称はワシントン・ポスト紙の戦時中の社説の一文「...海を捜索し、すべてのドイツの潜水艦を襲い、破壊する鷲」 に由来する。しかし、イーグル級は第一次世界大戦で実戦に参加したことはない。
イーグル級の船体は海上での安定性に問題を抱えていた。フォードの主張によると、圧延鋼板の代わりにフランジ鋼板を導入したことで生産が容易になったが、その耐航性は彼の理想からはほど遠かったという。
第一次大戦後の最初の数年間、イーグル級はより大型の艦が就役するまでの間、1920年にミッドウェー島で、そして1921年にハワイ諸島で水上機母艇として使用された。またマックス・ミラーの1932年の著書『I Cover The Waterfront』によると、哨戒艇「イーグル34」は、バガデュース級タグボート「コカ」と交代でメキシコのグアダルーペ島にてサンディエゴ動物園で展示するゾウアザラシを捕獲する任務についていた[5]。
多くのイーグル級は1919年に沿岸警備隊に移管され、残りは1930年代と1940年代初頭に売却された。
第二次世界大戦勃発時点で8隻のイーグル級が現役で使用されていた[4]。1隻は練習船としてマイアミに駐屯していたが[6] 、「イーグル56」は1945年4月、メイン州ポートランド近海でドイツの潜水艦に撃沈された。戦後、残った7隻も退役・除籍された[4]。
同型艦
要約
視点
PE-61から112の発注は、1918年11月30日にキャンセルされた。この計画では、PE-5・15・25・45・65・75・86・95・105および112がイタリア海軍へ提供される予定だったが、これもキャンセルされた。
ギャラリー
- PE-19
- PE-33
- PE-48
- PE-57
- PE-60
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出典
関連項目
外部リンク
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