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ウィリアム・ハンナ
アメリカのアニメーター (1910-2001) ウィキペディアから
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ウィリアム・デンビー・‘ビル’・ハンナ(William Denby "Bill" Hanna、1910年7月14日 - 2001年3月22日)は、アメリカ合衆国ニューメキシコ州出身のアニメーター及びプロデューサーである。
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生涯
ウィリアム・ハンナはニューメキシコ州メルローズでアイルランド系アメリカ人の一家に生まれた[1]。7人兄妹で唯一の男子で、大家族出身であったが、喧嘩一つしない仲のいい兄弟であったという[1][2]。一方でアイリッシュらしいタフな家風だったとも語っている[1]父は建設会社で働いており、様々な現場に参加する為に一家で移住を繰り返していた[1]。3歳の時に一家はオレゴン州へと移住、豊かな自然はハンナにとって貴重な経験となった[1]:6[3]。その後もユタ州など各地を転々とする生活を送り、[4]1919年にはカルフォルニア州に住んでいた[1]。
学校ではボーイスカウト活動[1]や音楽に熱中する子供だったという[5]。しかし既に漫画好きの気質は育まれており、音楽活動も基本的に「漫画を描く気分になる」というのが理由だった[4][6][7][8]。ちなみにボーイスカウトの方もかなり熱心に取り組んでおり、最上級のイーグルスカウトにまで上り詰め[4][9]、後にスカウトマスターの称号を協会から与えられている[3][4][10]。既にアニメーターとして著名だったハンナだったが、どんな賞よりもこの称号を誇りに思っていたと言われている[5]。
エルカミノ・コミュニティ・カレッジで土木工学を学んでいたが[6][11]、世界恐慌の最中に退校している[12]。
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アニメーター
1930年にワーナー・ブラザース向けのアニメーション作品を制作していたヒュー・ハーマンとルドルフ・アイジングが経営していたハーマン・アイジング・スタジオに入社し、アニメータとしてのキャリアをスタート。アニメータとしての特別な教育は受けていなかったが、程なくアニメーション制作部門のリーダー格となる。3年後の1933年にハーマン・アイジングとワーナーとの間で決裂が起こり、ハーマン・アイジングは、ワーナー・ブラザースとの契約を解消し、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)と新たな契約を結んだ。ハーマン・アイジングの2人がMGM向けの新たなアニメーションシリーズであるハッピー・ハーモニーズを製作するようになると、ハンナも彼らに続く。1937年にMGMはハーマン=アイジングからの外部受注をやめ、独自にアニメーション制作部門を立ち上げると、彼はMGMから監督という厚遇で迎え入れられる。同年に脚本家であったジョセフ・バーベラも入社。1940年よりそのバーベラとコンビを組み、『トムとジェリー』を共同制作し、同社の制作責任者(プロデューサー)であるフレッド・クインビーの下で日本でも知られる数多くの作品を生み出した。バーベラとのコンビは以後半世紀以上にもわたり続くことになる。アカデミー賞を7度受賞。1955年にクインビーがMGMを退職すると、バーベラと共に監督業と並行してプロデューサーとしてのキャリアをスタートさせ、MGMがアニメーション制作部門を閉鎖する1957年までの2年間、監督業との兼任となった『トムとジェリー』のほか、マイケル・ラーが監督するドルーピー作品の制作責任者となっている。MGM退社後もバーベラと共にハンナ・バーベラ・プロダクションを設立し、『トムとジェリー』の続編や、『チキチキマシン猛レース』などの作品を生み出している。
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文献案内
関連項目
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