トップQs
タイムライン
チャット
視点

エル・シコデリコ

ウィキペディアから

Remove ads

エル・シコデリコEl Sicodélico、本名:Pablo Rodríguez Arellano1944年4月4日[1] - )は、メキシコの元プロレスラー

概要 エル・シコデリコ, プロフィール ...

ミル・マスカラスの実弟、ドス・カラスの実兄であり、彼らと同じくリンピオ覆面レスラーとして活動したが、キャリア晩年はルードに転じた。長男のイホ・デル・シコデリコと次男のシコデリコ・ジュニアもプロレスラーである。

Remove ads

来歴

要約
視点

兄アーロン・ロドリゲス(ミル・マスカラス)の影響で少年時代からボディビルに打ち込み[3]ディアブロ・ベラスコのジムでトレーニングを積んだ後、1968年ハリスコ州グアダラハラでデビュー。ボディビルで鍛え上げた肉体を武器に、アルゼンチン・バックブリーカーなどの力技を用いるヘビー級のパワーファイターとしてキャリアを積んだ[4]

1971年6月、マスカラスが主戦場としていたアメリカ西海岸ロサンゼルス地区に登場。マスカラスとの兄弟コンビでキンジ渋谷&マサ斎藤NWAアメリカス・タッグ王座に挑戦し、マスカラスの抗争相手だったジョン・トロスとも対戦した[5]。同年末、日本プロレスに来日して、ザ・ストンパーマリオ・ミラノジン・アンダーソンデール・ルイスアサシンB、特別参加のボボ・ブラジルらと共に、年明け1972年1月の『新春チャンピオン・シリーズ』に参戦[6]。「ミル・マスカラスの弟」として注目を集めたが、キャリア不足を露呈し戦績は芳しくなく、期待を裏切る結果となった[7]

以後、メキシコのEMLLを主戦場にしつつ、1973年からはアメリカ南部にも遠征。ジョージアではパンテラ・ネグラをパートナーに、ボブ・アームストロングシャチ横内ターザン・タイラーブッチャー・ブラニガンらとタッグマッチで対戦[8]。2月27日に行われたジョージア・チャンピオンシップ・レスリング認定のNWAメイコン・タッグ王座決定トーナメントには、ビクター・リベラと組んで出場した[9][10]フロリダではロベルト・ソトとのコンビで活動し、クリス・マルコフともシングルマッチで対戦している[11]テキサス州サンアントニオでは再びマスカラスのパートナーとなり、ロサンゼルスでも抗争したエル・ゴリアス&ブラック・ゴールドマンのインターナショナル・タッグ王座に挑戦するも、ここでも戴冠を果たすことはなかった[12]

その間にはロサンゼルスに居住して、宿敵ゴールドマンの夫人の妹と結婚して2児(イホ・デル・シコデリコシコデリコ・ジュニア)をもうけ、1970年代後半にアメリカ合衆国グリーンカードを取得、セミリタイアしてアイスクリーム・ショップを開業した[13]。試合にも時折出場し、1980年にはテキサス州ヒューストンでのWCCWの興行にて、ジノ・ヘルナンデスキラー・ブルックスと対戦している[14]

事業から撤退後、1984年プエルトリコにて復帰、以降はメキシコシティに戻り、1986年は弟のドス・カラスとタッグを組んで活動、マスカラスを加えたトリオでロス・ブラソス(ブラソ・デ・オロエル・ブラソブラソ・デ・プラタ)との3兄弟抗争も行われた[15]

1989年ティフアナWWAにてサンドカン&カオスをパートナーに世界トリオ王座を獲得[2][16]1992年にはAAAの旗揚げに参加、当初はリンピオのポジションだったが、エース格のコナンと仲間割れしてルードに転向[2]。以降、コナンとの抗争アングルが組まれマスカラ・コントラ・カベジェラも予定されていたが、競合団体EMLLの妨害でショーは中止となり、彼自身もAAAを解雇された[2]

当時の彼は体重が125kgにまで増加しており、その後も現役を続けるも古傷の右膝を悪化させ、1996年に引退した[2]。引退後はアメリカのサンアントニオに定住し、中古車販売業に携わっている[17]

Remove ads

参考文献

  • 『Gスピリッツ Vol.16』辰巳出版、2010年。ISBN 4777808017
  • 『Gスピリッツ Vol.17』辰巳出版、2010年。ISBN 4777808297

得意技

獲得タイトル

脚注

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads