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オープン・ザ・ブレイブゲート王座
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オープン・ザ・ブレイブゲート王座は、DRAGONGATEが管理、認定している王座。
歴史
2005年3月、K-ness.とYOSSINOの発案で創設。3月13日、DRAGONGATE名古屋国際会議場大会で行われた初代王座決定トーナメントに優勝した土井成樹が初代王者になった。体重制限は82kg。
歴代王者
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主な記録
- 最多戴冠回数:6回 - 吉野正人(第3・7・10・12・19・23代)[3]
- 最多連続防衛回数:11回 - PAC(第20代)
- 最多通算防衛回数:16回 - 吉野正人
- 最長連続保持期間:447日 - PAC(第20代)
- 最年長戴冠記録:43歳3か月 - YAMATO(第53代)
- 最年少戴冠記録:19歳3か月 - フラミータ(第25代)
- デビュー最短戴冠記録:1年2か月 - ミノリータ(第46代)
- オープン・ザ・ドリームゲート王座との同時戴冠:土井成樹(第14代)、吉野正人(第19代)、YAMATO (第53代)
チャンピオンベルトのデザイン
ベルト中央に「龍」のエムブレムがあり、エムブレムは8つにばらせるようになっており、8人による王座決定トーナメントでは8つのエムブレムの配られて勝者が回収していく。
2008年4月27日、第9代王座決定戦に優勝したGammaが「DRAGONGATEで一番勇気のない俺がこのベルトを持っても価値がない」と言い、「龍」のエムブレムを外して独自のエムブレムを付けたオープン・ザ・ガンマゲート王座と名付けられて勝手に王者になっていた。Gammaがコミッショナーに就任。6月29日、Dr.マッスルがGammaを破って「龍」のエムブレムに戻された。独自のエムブレムは超神龍にプレゼントされた。挑戦者はGammaが一方的に決めて何かと言いがかりをつけたり、後付したルールで防衛することがある。立会人の堀口元気が試合に介入することがある。
主な出来事
- 挑戦資格は体重82kg以下であるが2009年2月12日の第12代王者の吉野正人の2度目の防衛戦の相手のKAGETORAは85kgで規定体重をオーバーしていた。この防衛戦は先月25日に行われた「BATTLE OF TOKYO 2009」優勝者と行うことになっていた。しかし、吉野が全参加選手の体重を確認しておらず、KAGETORAの言い分を呑む形となった。そのためこの試合のみ体重制限が撤廃された。これまで規定体重をオーバーしてブレイブゲートに挑戦した選手はいなかった(挑戦が決まった段階で82kg以上あった選手もいたが体重を落として82kg以下にして挑戦した)。
- 2018年にEitaがベルトを破壊したため、2019年に修理が行われた。この際、当時の王者であったドラゴン・キッドの「ブレイブゲートをそれぞれの王者の色に染めてほしい」という発案によりベルトの色が黒から白に変更された。
- 他団体・フリー枠で戴冠した事が有るのは、タイガースマスク(大阪プロレス)、奥田啓介(フリー)の2人だけである。
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Blood WARRIORS認定オープン・ザ・ブレイブゲート王座
2011年6月12日、第20代王者のPACがイギリスに帰国することを理由にBlood WARRIORSの谷嵜なおきがPACから王座を強奪してBlood WARRIORS認定オープン・ザ・ブレイブゲート王座と名付けられて勝手に王者になっていた。メタル・ウォリアーがコミッショナーに就任。7月24日、リッチ・スワンが谷嵜に挑むも敗北。8月25日、Gammaが谷嵜に挑むも事前に谷嵜から突き付けられた「王者(谷嵜)のみ2カウントで勝ちになる特別ルール」の影響で敗北。9月16日、本当の王者であるPACが「王者(谷嵜)のみ2カウントで勝ちになる特別ルール」で谷嵜を破って王座を自分の手に戻した。
脚注
関連項目
外部リンク
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