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オーヴルチ

ウクライナのジトーミル州の都市 ウィキペディアから

オーヴルチ
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オーヴルチウクライナ語: Овруч)はウクライナジトーミル州オーヴルチ地区(ru)の市である。オーブルチ地区の行政の中心地であり、コロステニ、カリンカヴィツィ(ru)、ヤニウ(ru)、ビロコロヴィチ(ru)をつなぐ鉄道路線の交点にあたる。自然地理的にはプリピャチ川水系のノルィーニ川(uk)に面している。

概要 オーヴルチ Овруч, 座標 : 北緯51度19分28秒 東経28度48分29秒 ...
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歴史

中世・近世

年代記における最初の言及は、『原初年代記』の977年ドレヴリャーネ族の街「ヴルチー」として記述されたものである。この年、キエフ大公ヤロポルク1世が、キエフ大公位を巡る闘争の過程で弟のオレグ(ru)を攻めると、オレグはヴルチーへ逃れるも、街の堀に転落して死亡した。[注 1]。オレグは街に埋葬されたが、その後キエフへ運ばれた[注 2]。現在のオーヴルチにはオレグの碑がある。

12世紀 - 13世紀のオーヴルチは、ベルゴロドヴィシゴロドと同様に、キエフ公国分領公国オーヴルチ公国)としてキエフ大公の若い親族に分与されていた。統治者は主にスモレンスク公家の出身者だった。また11世紀 - 13世紀初頭のオーヴルチは、周辺地域のスレート産業に関連した手工業製品の生産の中心地だった。オーブルチ産スレート製自動紡車(ru)は、ルーシの諸公国、ポーランドヴォルガ・ブルガールヘルソネスなどへ流通する、広い販売市場を有していた[5]

1230年代末のモンゴルのルーシ侵攻において、オーヴルチはモンゴル帝国軍の侵略を受けた。その後、ジョチ・ウルスバスカクによって管理された。1362年、他の南部ルーシの地と共にリトアニア大公国の一部となった。1641年マグデブルク法を採用した。1793年第2次ポーランド分割によって帝政ロシアに組み込まれた。帝政ロシア時代末期の1911年にはニコライ2世がオーヴルチを訪問している[6][7]

近代・現代

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文化

市には郷土歴史博物館があり、オーヴルチ城(ru)の敷地内に救世主顕栄大聖堂がある。また、オーヴルチの聖ヴァシリー教会(ru)はピョートル・ミロネグ(ru)(1100年代後半)によって作られた、モンゴルの侵攻以前から残る古刹である。1907年から1909年にかけてアレクセイ・シューセフが修復作業を手掛けた。

オーヴルチでは『夜明け』と『オーブルチの声』という2つの地方紙を出版している[注 3]。また、市の名を冠した小惑星・オーヴルチ(221073)(uk)がある[8]

ゆかりの著名人

  • オスタフィー・ダシュケヴィチ(uk):1472年頃 - 1535年:コサックヘトマン
  • マカリー・カニヴシクィー(uk):1605年頃 - 1678年:掌院
  • Stefano Ittar(ru):1724年 - 1790年:建築家。オーヴルチ生まれのイタリア人。
  • יעקבֿ-שמואל הלױ טרכטמן(ru):1831年 - 1925年:著作家。オーヴルチ生まれのユダヤ人。
  • ヴォロディームィル・ボホラズ(uk):1865年 - 1936年:民族誌学者。
  • オレクサンドル・ルホヴィー(uk):1904年 - 1962年:著作家。
  • アンドリー・マルィシコ(uk):1912年 - 1970年:詩人・文芸評論家。
  • スラミフ・ツィブリヌィク(uk):1913年 - 1996年:映画監督。
  • セメーン・カツ(uk):1915年 - 1985年:科学者・法学者。
  • ラルィサ・コジンツェヴナ(uk):1929年 - 2005年:水文学者。
  • オレクサンドル・ラヴルィノヴィチ(uk):1956年 - :政治家。

脚注

参考文献

外部リンク

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