トップQs
タイムライン
チャット
視点

ガイウス・マルキウス・ルティルス (紀元前357年の執政官)

ウィキペディアから

Remove ads

ガイウス・マルキウス・ルティルスラテン語: Gaius Marcius Rutilus、生没年不詳)は紀元前4世紀共和政ローマの政治家・軍人。プレブス出身者として初めて独裁官(ディクタトル)と監察官(ケンソル)に就任し、執政官(コンスル)を四度務めた。

概要 ガイウス・マルキウス・ルティルス C. Marcius L. f. C. n. Rutilus, 出生 ...

経歴

紀元前357年に1回目の執政官に就任した。ガイウス・マルキウスはプリウェルヌムに対する作戦を実施し、これを占領、大量の戦利品を得た。戦利品は兵士に分配され、彼自身は凱旋式を実施している[2]

紀元前356年エトルリアが蜂起し、海岸沿いの製塩施設にまで侵攻すると、これに対処するためにガイウス・マルキウスが独裁官に任命された。ローマ軍はエトルリア軍野営地を奇襲し、8,000を捕虜とし、残りはローマ領から駆逐した[3]。この勝利にもかかわらず、元老院は凱旋式を認めなかったが、ローマ市民の手によって凱旋式が実施された[4][3]。但し、現代の歴史家の中には、独裁官就任は彼の子孫による創作であると考えるものもいる。

紀元前352年に再び執政官に就任[5]。任期の終わり頃、パトリキの反対にもかかわらず監察官に立候補し、その選挙に勝利している。紀元前344年[6]紀元前342年[7]にも執政官を務め、サムニウム戦争を戦った。

Remove ads

家族

同名の息子ガイウス・マルキウス・ルティルス・ケンソリヌス紀元前311年護民官に就任し、紀元前310年には執政官となっている[8]。この息子のケンソリヌスは、オグルニウス法の下、プレブス出身者としては初めてアウグル(鳥占官)となった。さらに監察官も紀元前294年紀元前265年の二度務めている[9]

脚注

参考資料

関連項目

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads