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キケ・サンチェス・フローレス

スペインのサッカー選手・監督 ウィキペディアから

キケ・サンチェス・フローレス
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キケ・フローレス(Quique Flores)ことエンリケ・サンチェス・フローレス(Enrique Sánchez Flores、 1965年2月2日 - )は、スペインの首都マドリード出身のサッカー指導者、元サッカー選手。現役時代のポジションはディフェンダー

概要 キケ・フローレス, 名前 ...
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経歴

要約
視点

選手時代

サイドバックとして、バレンシアCFレアル・マドリード、およびレアル・サラゴサでプレー。バレンシアではキャリアの大半となる10シーズンを過ごし、2シーズンを過ごしたレアル・マドリードではリーガ・エスパニョーラ制覇を経験した。

スペイン代表としても15試合に出場し、1990年のワールドカップ・イタリア大会のメンバーにも選出された。

監督時代

キャリア初期

レアル・マドリードの下部組織で指導者としてのキャリアをスタート。2004-05シーズンに1部リーグ初昇格のヘタフェCFの監督に招聘されると、降格候補の筆頭格に挙げられていたクラブを13位に導き、1部リーグ残留を果たした。

バレンシア

ヘタフェでの手腕を買われ、2005-06シーズンより古巣バレンシアの監督に就任。就任初年度からリーグ戦を3位で終え、チャンピオンズリーグ(CL)の出場権を確保した。翌2006-07シーズンは多くの怪我人を抱えながらも、国内リーグでCL出場圏内の4位確保に成功。CLではASローマを抑えてグループリーグを首位通過すると、決勝トーナメント1回戦でインテルを撃破。準々決勝でチェルシーFCに敗れたものの、ベスト8の成績を残した。しかし、3年目のシーズンは開幕戦で黒星を喫すると低迷し、第9節のセビージャFC戦に0-3で敗れた後に解任された。

ベンフィカ

2008-09シーズン、ホセ・アントニオ・カマーチョの後任としてベンフィカの監督に就任[1]。開幕前にはホセ・アントニオ・レジェスパブロ・アイマールを獲得する大型補強を敢行した。リーグ戦では年を越すまで無敗を続けたものの、後半に失速。最終順位は3位で翌シーズンのCL出場権を逃した。また、UEFAカップではグループリーグ最下位に終わった。契約期間はあと一年残っていたものの、シーズン終了後に双方合意のもとで契約を解除した[2]

アトレティコ・マドリード

2009年10月、シーズン途中にアトレティコ・マドリードの監督に就任。深刻な不振に陥っていたチームを7ヶ月間で建て直した[3]。リーグ戦は9位に終わったものの、ヨーロッパリーグで優勝、コパ・デル・レイでは準優勝を果たした。シーズン終了後に1年間の契約延長に合意した[4]

翌2010-11シーズンは、8月に行われたUEFAスーパーカップインテルを破り優勝[5]。幸先のよいスタートを切ったものの、エースFWのディエゴ・フォルランとの確執が度々報じられ[6][7]、チーム状態が悪化。リーグ戦は7位に終わり、ヨーロッパリーグでもグループステージで敗退。シーズン終了と同時に辞任した。

ヘタフェ(第2期)

アトレティコ・マドリードを退団してからはUAEのクラブで監督を務めていた。2015年1月、ヘタフェCFに10年ぶりに復帰した[8]。しかし、2月26日に突如辞任を表明した[9]

ワトフォード

2015年6月6日、プレミアリーグに昇格したばかりのワトフォードFCの監督に就任した[10]

上海申花

2018年12月25日にウ・ジングイ前監督の後任として、中国スーパーリーグ上海申花の監督に就任した。若手選手を積極的に起用し、チーム力の底上げに尽力したが、2019シーズンは第15節終了時点で3勝3分け9敗の14位と低迷。2019年7月3日、個人的な理由で辞任したことを発表した[11]

ワトフォード(第2期)

2019年9月7日、解任されたハビ・グラシアの後任としてワトフォードFCの監督に復帰[12]。 しかし、チームを立て直すことができずリーグ戦10試合でわずか1勝にとどまったことから11月30日に解任された[13]

ヘタフェ(第3期)

2021年10月6日、ミチェルの後任としてリーグ最下位に沈むヘタフェの監督に就任した[14]

セビージャ

2023年12月17日、ディエゴ・アロンソの後任としてリーグ降格圏に沈んでいたセビージャの監督に就任した[15]。その後チームを14位まで引き上げ残留させることに成功するも、2024年5月18日、1年の契約を残し今季限りでの退団が発表された[16]

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指導方針

特に組織戦術に重きを置くタイプの監督である。バレンシア時代は全体をコンパクトに保ったうえで、ボールを奪った後は素早いカウンターを仕掛ける、堅守速攻のサッカーを志向した[17]。また、この戦術をチームに浸透させるため、視聴覚室を新設し、ここでのミーティングを頻繁に行った[18]

一方で、選手が犯すミスには厳しく、罰として招集メンバーから外すこともあった[19]

監督成績

2019年11月30日現在
さらに見る クラブ, 就任 ...
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家族

獲得タイトル

選手として

監督として

クラブ
個人

脚注

外部リンク

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