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グランド・ファンク・レイルロード

アメリカ合衆国のハードロックバンド ウィキペディアから

グランド・ファンク・レイルロード
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グランド・ファンク・レイルロードGrand Funk Railroad, GFR[注釈 1]アメリカ合衆国ハードロックバンド1960年代末にマーク・ファーナー、メル・サッチャー[3]、ドン・ブリューワーによって結成されたトリオで、1970年代半ばにかけてアルバム、ヒット・シングルを連発して高い人気を誇った。

概要 グランド・ファンク・レイルロード, 基本情報 ...

二度の解散と再結成を経て、ブリューワーを中心に2023年現在も活動中である。

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概要:歴史

要約
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「テリー・ナイト・アンド・ザ・パック(Terry Knight and the Pack)」というバンドで活動していたドン・ブリューワー (Don Brewer, ds)とマーク・ファーナー (Mark Farner, vo & g)、が、テリー・ナイト(Terry Knight)がバンドを去ったのを機に、メル・サッチャー (Mel Schacher, b) を誘って新しいバンドを結成し、アメリカの鉄道会社「グランド・トランク鉄道 (Grand Trunk Western Railroad) 」をもじったグランド・ファンク・レイルロードと名付けた。

1968年頃より勃興していたニューロック、あるいはヘヴィロック(現在のハードロック)のスタイルをいち早く取り入れ、1969年にかつて同僚ナイトをプロデューサーに迎えたアルバム『グランド・ファンク・レイルロード登場 (On Time』でデビューする。レッド・ツェッペリンのアメリカ公演の前座を務めた際に、その歌と演奏力で聴衆を熱狂させてツェッペリンを食ってしまったことによって、ロックファンの間で知名度が高まった。アルバムからシングルカットされた「ハートブレイカー」はハードロックの古典になり、セカンド・アルバム『グランド・ファンク (Grand Funk』に収録されたアニマルズの「孤独の叫び」のカバーファンキーな人気曲となった。日本でも人気を集め、ザ・タイガースが「ハートブレイカー」をコンサートのレパートリーとして取り上げ、のちにフォークシンガーとしてデビューする井上陽水が、この曲のコード進行を模倣して「傘がない」を書いた。1971年の東京公演は後楽園球場で行なわれ、激しい雷雨の中での演奏は今も語り草になっている。

1972年の『不死鳥 (Phoenix』からはナイトと決別し、クレイグ・フロスト (Craig Frost, kbd) を迎えて4人編成になり、バンド名をグランド・ファンク (Grand Funk)に変更して音楽性をポップな方向に広げた[注釈 2]。同アルバムからは「ロックンロール・ソウル」がシングル・カットされた。1973年、トッド・ラングレンにプロデュースを委ねたアルバム『アメリカン・バンド (We're an American Band) 』を発表。同名シングル曲が全米1位を獲得する大ヒットとなり、このアルバム・タイトルはそのまま彼らの代名詞となり、同名曲はボン・ジョヴィなどアメリカの後続のロックバンドにライブなどで何度もカバーされている。

続いて1974年に発表したアルバム『輝くグランド・ファンク (Shinin' On) 』からは、ジェリー・ゴフィンキャロル・キング作で1962年にリトル・エヴァによって全米1位を獲得した大ヒット曲「ロコモーション (The Loco-Motion)」をハードロック風にアレンジしたカバーがシングルカットされ、こちらも全米1位を獲得。GFR時代とグランド・ファンク時代を通じて最大のヒット・シングルとなった。同アルバムからは「シャイニン・オン」もシングルカットされた。

1975年には、前年末に発表したアルバム『ハード・ロック野郎 (世界の女は御用心) (All the Girls in the World Beware!!!) 』から、ソウル・ブラザーズ・シックスの原曲をブギ・ウギ調にアレンジした「オー・ワンダフル (Some Kind of Wonderful)」と「バッド・タイム」の2曲のヒットを放った。1976年の『驚異の暴走列車 (Born to Die) 』をもってCapitolとの契約は満了した。同年、MCAからフランク・ザッパをプロデューサーに迎えた『熱い激突 (Good Singin', Good Playin') 』を発表した[注釈 3][4]が、その直後に解散した。

解散後、ファーナーはソロでMark Farner(1977年)、No Frills(1978年)の2枚のアルバムを発表した。ブリューワー、サッチャー、フロストの3人はFlintを結成しFlint(1977年)を発表した。

1980年、GFRはファーナーとブリューワーによって再結成された。『グランド・ファンク復活 (Grand Funk Lives) 』と『ホワッツ・ファンク? (What's Funk?) 』と2枚のアルバムを発表するが、ヒットを出すことなく1983年に再度解散した。

1997年に行なわれたボスニア救済コンサートをきっかけにオリジナル・メンバー3人で再々結成(『ボスニア (Bosnia) 』)。1999年にファーナーがソロ活動のために脱退し、元キッスのブルース・キューリックが加入した。


2024年1月にブルース・キューリックの脱退が発表され、マーク・チャットフィールドが加入[5][6]

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メンバー

Thumb
Mel Schacher
January 12, 2002
Thumb
Bruce Kulick
January 12, 2002
Thumb
Mel & Bruce
January 12, 2002

現在のメンバー

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過去に在籍したメンバー

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ディスコグラフィー

スタジオ・アルバム

ライヴ・アルバム

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コンピレーション

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シングル(米国)

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メンバー構成推移

要約
視点
さらに見る 1968~1972, 1972~1977 ...
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日本公演

7月17日 後楽園球場、 18日 大阪球場
後楽園球場では、開演時に会場へ入り切れなかった観客が暴徒化。12番ゲートの扉を破壊して放火、駆け付けた機動隊員らに投石をする騒ぎとなったが、偶然発生した激しい雷雨により暴動は鎮静化した[7]
5月18日 名古屋市公会堂、19日 京都会館、21日 大阪厚生年金会館、22日,23日 日本武道館
9月6日 日本武道館、8日 大阪フェスティバルホール、9日 名古屋市公会堂
  • 1997年
6月21日 赤坂ブリッツ、22日 大阪フェスティバルホール、24日,25日 中野サンプラザ


※ファーナーは、ソロやリンゴ・スター&ヒズ・オールスター・バンドの公演でも来日している[8][9][10]

脚注

関連項目

外部リンク

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