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コロネーション (1838年生の競走馬)

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コロネーション (1838年生の競走馬)
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コロネーション英語: Coronation1838年生)は、イギリスで生産・調教されたサラブレッドの競走馬、種牡馬

概要 コロネーション, 現役期間 ...

1840年8月から1841年9月までの間に7戦し、デビューから第62回ダービーステークスを含む6連勝を挙げた。その後第66回セントレジャーステークスで惜敗、引退して種牡馬となった。種牡馬としてイギリスで数年供用されたのち、ロシア帝国に輸出された。

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競走馬時代

要約
視点

オックスフォードシャーチャドリントン英語版エイブラハム・タイサック・ローリンソンwikidata[注 1]によって生産・所有され、チャドリントンの牧場厩務員 (stud groom) であったベン・ペインター (Ben Painter)[注 2]によって調教が積まれた。誕生した1838年ヴィクトリア女王戴冠式 (coronation) が挙行された年である。

コロネーションの父馬であるサーハーキュリーズは、1829年の第54回セントレジャーステークスで3着に入ったアイルランド産の競走馬である。種牡馬としても多数の活躍馬を出す大成功を収め[3]、コロネーション以外の産駒に現代のサラブレッドのほとんどの父系祖先であるバードキャッチャー(1833年産)、2000ギニーステークス勝ち馬ザコルセア(The Corsair、1836年産)、セントレジャー勝ち馬フォアバラー(1841年産)などがいる。

コロネーションは体高16ハンドの、「ブラッド・ベイ」と呼ばれる赤味の強い鹿毛であった。1841年に「ファーマーズ・マガジン (Farmer's Magazine)」誌は、力強く先細りの頭部、筋肉質な肩、長い脚の「素晴らしい外観の動物」と評した[2]

2歳(1840年)

コロネーションは1840年の夏に2回出走した。初出走となったオックスフォード競馬場8月18日に行われた2歳・3歳馬による4頭立てのスウィープステークス方式未勝利戦を楽勝。続いてウォリック競馬場英語版開催のスウィープステークスでも2着馬にクビ差で勝利した。コロネーションは「この年最良の2歳馬」と評価され[4]ブックメーカーは翌年のダービーのオッズを18/1(19倍)に設定した[5]

3歳(1841年)

3歳での初戦となったトライアルステークス(ウォリック競馬場)で強い勝ち方を見せ[6]、コロネーションのダービーのオッズは4月15日に10/1(11倍)から9/1(10倍)へと引き下げられた[7]。ダービーへ向けての準備として、ローリンソンはグロスターシャーノースリーチを拠点としていたプロ調教師アイザック・デイ (Isaac Day) の元へコロネーションを入厩させた[1]

5月26日エプソム競馬場で行われた第62回ダービーステークスは29頭が出走した。発走数時間前に4/1(5.0倍)だったコロネーションのオッズは最終的に5/2(3.5倍)となった[8]。鞍上は1834年にプレニポテンシャリー英語版でダービーを制したパトリック・コノリー英語版が務めた。

天候は暖かく晴れており、恒例の大観衆(「サンデー・タイムズ」紙は「国中のあらゆる階級・富・才能・美」を兼ね備えた「巨大な群衆」と表現した)が来場した[8]。王族の台覧こそなかったが、4人の公爵・4人の侯爵・7人の伯爵らの貴族も観覧した[9]

6・7回におよぶ不正スタートカンパイ)による長い遅延の後にスタートが切られた。コノリーはコロネーションを先団馬群のすぐ後ろに位置取らせて楽なペースでレースを進め、直線で有力馬が疲れ始めるとコロネーションを促して先頭に立たせた。抜け出したコロネーションは他馬に詰め寄られることもなく、2着馬ヴァンアンバーグ (Van Amburgh) に3馬身差をつけて快勝した[10]。レース後、コロネーションは検量所で群衆に囲まれ、蹴り飛ばして一人を死亡させる事故を起こした[11]。馬主のローリンソンは4,275ポンドの賞金に加え、8,000ポンドと推定される勝ち馬券を手にした[10][12]

6月8日ロイヤルアスコットアスコット競馬場)では第7回アスコットダービー(後のキングエドワード7世ステークス)に出走、ヴィクトリア女王を含む観衆の前で単走(ウォークオーバー)で勝利した[12][13]。古馬との初対戦となった8月18日のオックスフォードカップ (Oxford Cup、オックスフォード競馬場・2.4マイル) も、1/5(1.2倍)のオッズで優勝した。

ダービーにおけるコロネーションの圧倒的な勝ちっぷりから、9月14日の第66回セントレジャーステークスドンカスター競馬場)は賭けが成り立たないと言われるほどだった[14]。出走馬11頭中でコロネーションのオッズは一番人気の1/2(1.5倍)で、対抗できるとみなされたのは初代ウェストミンスター侯爵ロバート・グローヴナーの持ち馬サティリスト(Satirist、オッズは5/1=6.0倍)だけだった。コロネーションは中盤で先頭に立ったが、ビル・スコット英語版が騎乗するサティリストが直線で猛然と追い上げ、最後にコロネーションを交わし「クビ半分 (half a neck)」の差で勝利した[14]。騎手のジョン・デイ英語版によると、コロネーションはセントレジャーに向けて「甘やかされた子供のように扱われ」、ドンカスターに向かう際も万全の調子ではなかったという[15]

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種牡馬時代

コロネーションは種牡馬としては大きな成功を収めることはできなかったが、1849年の第36回1000ギニーステークスに優勝したザフリー英語版を出している[3]。また1845年産の牝馬ザブリティッシュクイーン (The British Queen) は繁殖牝馬として成功した[3]イングランドの種馬場で数年供用された後、コロネーションはロシアに輸出された[16]

血統表

Coronation血統(血統表の出典)[§ 1]
父系エクリプス系
[§ 2]

Sir Hercules
1826 青毛
父の父
Whalebone
1807 黒鹿毛
Waxy Pot 8 o's
Maria
Penelope Trumpator
Prunella
父の母
Peri
1822 鹿毛
Wanderer Gohanna英語版
Catherine
Thalestris Alexander
Rival

Ruby
1825 栗毛
Rubens
1805 栗毛
Buzzard Woodpecker
Misfortune
Alexander Mare Alexander
Highflyer Mare
母の母
Williamson's Ditto Mare
1812 黒鹿毛
Williamson's Ditto英語版 Sir Peter
Arethusa
Agnes Shuttle
Highflyer Mare
母系(F-No.) 26号族(FN:26) [§ 3]
5代内の近親交配 Alexander:S4×M4, Woodpecker:M4×S5, Sir Peter:M4×S5, Eclipse:S5×S5×M5, Herod:S5×M5, Highflyer:S5×M5×M5×M5 [§ 4]
出典
  1. JBISサーチ[17]およびnetkeiba.com[18]
  2. netkeiba.com[18]
  3. JBISサーチ[17]およびnetkeiba.com[18]
  4. JBISサーチ[17]

脚注

外部リンク

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