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サヴィル幾何学教授

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サヴィル幾何学教授
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サヴィル幾何学教授[1][2](サヴィルきかがくきょうじゅ、: Savilian Professor of Geometry)の地位は、1619年にオックスフォード大学で設立された[3]オックスフォード大学マートン・カレッジ学長英語版イートン・カレッジ学長英語版を務めた数学者古典学者ヘンリー・サヴィル英語版が、当時"イングランドの数学研究における悲惨な状況"を嘆いたある数学者に反応してサヴィル天文学教授英語版と同時に創立した[4]。初代教授には、ヘンリー・ブリッグスが任命された。1931年から1963年までこの教授職を務めたエドワード・ティッチマーシュ英語版が教授への応募時に彼が幾何学の講義を行う準備ができていないと述べた際、幾何学講義の職務は除去されたものの、"幾何学教授"という肩書きは変更されなかった。2つのサヴィル教授職は19世紀後半からニュー・カレッジ英語版の教授フェローシップと関わってきた。19世紀半ばまでの約175年間においては、幾何学教授はニュー・カレッジ・レーン英語版に隣接する場所に公式に住居を持っていた。

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サヴィル幾何学教授職創立者であるヘンリー・サヴィル英語版

2020年現在までに、20人が教授職を勤めた。2017年から現職のフランシス・カーワン英語版は初めて女性でサヴィル幾何学教授に就任した。この地位は現在まで様々な著名な数学者に保持されてきた。ブリッグスは"数学の中で最も使いやすい体系"と形容される常用対数の発展に寄与した[5]。3代目に教授を務めたジョン・ウォリス無限の概念に対し記号を使用し、"当時の一流数学者の一人"であると述べられた[6]ハレー彗星の周期を予測したエドモンド・ハレーとその後任者のナサニエル・ブリス王室天文官を務めた。スティーヴン・ピーター・リゴー英語版は"彼の生きた世代の中で屈指の天文学・数学史家"と呼ばれた[7]ジェームズ・シルヴェスターはその生涯と仕事を敬して王立協会によりシルヴェスター・メダルが創立された。エドワード・ティッチマーシュ英語版はシルヴェスター・メダルを獲得している。シルヴェスターとマイケル・アティヤコプリ・メダルを授与された。アティヤは在職中にフィールズ賞も受賞した。

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設立と職務

オックスフォード大学マートン・カレッジ学長英語版イートン・カレッジ学長英語版を務めたヘンリー・サヴィル卿英語版は、20世紀の数学者イダ・バスブリッジ英語版が"イングランドの数学研究における悲惨な状況"(the wretched state of mathematical studies in England)と述べたことに深い悲しみを覚え[4] 、1916年にオックスフォード大学において自身の名を冠する幾何学天文学の教授職を設立した。彼は"主に数学の書籍の読者のために"大学図書館であるボドリアン図書館に本を寄付した[4]。教授には性格が良く、26歳以上で、科学の根本的な知識を得る以前に"アリストテレスプラトンを源泉としてより純粋な哲学の知識を吸収した"男性を必要とした[8]。また、キリスト教国出身者であればよいとしたものの、イングランド出身の者は最低限修士であることが求められた[9]。生徒には古代を代表する一流科学者の作品、例えばエウクレイデスの『原論』やアポロニウスConicsアルキメデスの作品群に学ぶことを望んだ。三角法の授業は2人の教授に分担された。多数の学生が多少の数学の知識も持っていなければ、(当時オックスフォード大学で使用されていたラテン語ではなく)英語で基礎数学を講義することも許可された[8]

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任命

サヴィルが最初に教授に選出した人物は、グレシャム・カレッジ英語版天文学教授英語版を務めていたエドマンド・ガンターであった。ガンターは比例コンパス英語版象限儀の使用法を実証したことで記録されているが、サヴィルはこれを幾何学というよりはむしろ"奇術の披露"であるとみなして、1619年にグレシャム幾何学教授英語版を勤めていたヘンリー・ブリッグスを選んだ[8]。1620年、ブリッグスは年給を150ポンド[注釈 1]として雇われイギリスで設立された2つの数学職に最初に就くこととなった[4][5]

サヴィルは生涯の間教授を任命する権利を有した。自身の死後はカンタベリー大主教オックスフォード大学学長英語版ロンドン司教英語版国王秘書長官民訴裁判所主席裁判官国王座部主席判事英語版財務府裁判所主席判事英語版アーチーズ裁判所主席判事英語版など"最も錚錚たる人物"群の大多数の指名で席が埋められることを命じた[11]オックスフォード大学副学長英語版は欠員を彼ら有権者に知らせ、必要ならば進言を行うことができた。任命は率直に行われることも、英国外から"著名な数学者を招聘すること"ができるかを判断するために数か月議論を遅らせることも可能であった[11]

19世紀に大学が一部改革されたことに応じて、1881年にオックスフォード大学委員会委員は新しい法令を発布した。サヴィル幾何学教授は"純粋幾何学及び解析幾何学の講義と指導を行う"こととなり、ニュー・カレッジ英語版フェローになった[12]。教授職任命の有権者はニュー・カレッジ学長(または大学に学長と代わる人物として選ばれた人物)、 オックスフォード大学の学長英語版王立協会代表、オックスフォード大学セッドリー自然哲学教授英語版ケンブリッジ大学セッドリー純粋数学教授英語版、及び大学議会やニュー・カレッジ選ばれた人物によって選出された人物らとされた[12]。1931年から1963年まで教授を務めたエドワード・ティッチマーシュ英語版は任命時に幾何学の講義を行う準備ができていないことを述べた。ティッチマーシュの任命を果たすため、幾何学講義の職務が除去されたが、幾何学教授の肩書は変更されなかった[13]。20世紀及び21世紀前期の大学内部の法令の改正によってサヴィル教授などの個々の任命と職務に関する特定の法令が廃止された。現在大学議会は勤務条件と教授任命の適切な段取りを作成する権限を与えられている。有権者委員会には、教授職が割り当てられているカレッジ(サヴィル教授の場合はニュー・カレッジ) から2人の代表者が送られる[14][15]

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教授の住居

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サヴィル幾何学教授が正式に使用するニュー・カレッジ・レーン英語版に面する住宅。

1649年から1703年までサヴィル幾何学教授を務めたジョン・ウォリスは1672年から1703年(没年)までニュー・カレッジ・レーン英語版沿いに住居を借りていた。あるときに住宅は2つに分割され、サヴィル天文学教授のデイヴィッド・グレゴリー英語版が晩年に東側の区画に居住した。ウォリスとグレゴリー間の賃貸契約書は残されていないが(もし彼らの共通の友人の間で契約が交わされていたとしても)、初めてグレゴリーの名が現れたのは1701年で、教区の台帳に残されている。ウォリスの息子は1704年に父の長期の在任を記念して、契約書の残りの部分を提出し、2人のサヴィル教授に公式に邸宅が提供された。ニュー・カレッジは1716年から契約を更新して家賃の低くし、1814年まで定期的に契約更新が行われた。2つの住居に住んでいた人物の記録は契約期間内には秘匿されているが、現存の文書によって教授らがしばしば住居を転貸し、また18世紀前期頃には宿泊施設としても使われていたことが示されている。スティーヴン・リゴー英語版は1810年からサヴィル天文学教授になった1827年までこの住居に滞在し、その後ベーデン・パウエル英語版が家族とともに居住した。幾何学教授は天文家教授よりも長期間この住居と関わってきた。ラドクリフ天文台が1770年代に建設されると、幾何学教授は天文台所長と結びつくようになり、所長用の家が作られ、その結果大学側が天文学教授の家を転貸した。19世紀前期にはニュー・カレッジは天文学教授の家をカレッジ側が使用することを決め、1854年に契約書が期限切れになった[16]

教授の一覧

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脚注

  1. 1620年の150ポンドは、2013年(2015年1月現在で最新の情報を得られた年)の小売物価指数を用いてインフレーションに合わせて換算した場合、約27290ポンドに相当する。国内総生産を指標として換算した場合、約5345000ポンドに相当する[10]
  2. 記載がない場合はオックスフォード大学出身。
  3. ブリッグスはマートンに住み、サヴィル幾何学教授職を通じて大学に協力したが、大学のフェローではなかった[5][17]
  4. ウォリスはエクセター・カレッジを通じて大学の一員として協力したが、カレッジのフェローではなかった[6][17]
  5. ハーレーはクイーンズ・カレッジのメンバーだが、フェローシップには選出されていない[17][19]
  6. ブリスはペンブローク・カレッジのメンバーであったが、フェローではなかった[17][20]
  7. ロバートソンは、ノーサンプトンの教区(代理)牧師に指名される以前にはクライスト・チャーチのチャプレンを務めていたが、オックスフォードに居住し続け、またカレッジのフェローではなかった[23]
  8. リゴーは1810年までエクセター・カレッジのフェローで、その後にカレッジで職を受け持った記録は存在しない[7][17]
  9. パウエルはカレッジで職を得た記録はない[17][25]
  10. スミスは財政上の理由で1871年までベリオール・カレッジにて数学の講師を続けていた。その後コーパス・クリスティ・カレッジで閑職のフェローシップを任命され、同時にベリオール・カレッジの名誉フェローに選出された[26]
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出典

関連項目

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