肖像 |
名前 |
就任期間 |
出身校[注釈 2] |
教授を務めた大学 |
備考 |
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ブリッグス, ヘンリーヘンリー・ブリッグス |
1619–1631 |
Cambridge, St Johnケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ(英語版) |
マートン・カレッジ[注釈 3] |
ブリッグスはケンブリッジ大学で数学と物理学(医療物理学)の講師をしていた。1957年にはグレシャム・カレッジ(英語版)の幾何学教授に就任した。1615年までに自然対数の原理を熟知した。対数の計算は桁の大きい数の掛け算を足し算として扱えるため、天文学や航海の計算で使用された。ブリッグスはネイピアに常用対数を使用することを提案した。エディンバラに住むジョン・ネイピアにブリッグスが2度訪問した後に、2人は対数の再定義を行ったが、1617年にネイピアは、体調を崩していたため、ブリッグスなど他の誰かに計算を任せたい旨を書いた。ブリッグスは"数学において最も扱いやすい体系の一つ"を作ったと認識されている[5]。 1624年の主要な作品 Arithmetica logarithmica には1から20000、90001から100000までの対数が小数第14位まで記述されている。1631年にマートンで没し、マートン・カレッジ・チャペル(英語版)の合唱の中で埋葬された[5]。 |
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ピーター・ターナー(英語版) |
1631–1648 |
Oxford, St Mary Hallセント・メアリー・ホール(英語版) 及びクライスト・チャーチ |
マートン・カレッジ |
ターナーは1620年にブリッグスのグレシャム・カレッジ(英語版)の幾何学教授を後任した。1631年にサヴィル幾何学教授を引き継いでグレシャムの教授職を辞任した。辞任以前にターナーはカンタベリー大主教とオックスフォード大学学長(英語版)を務めていたウィリアム・ロードに大学の統治のために新しい法令の草案作成の援助を頼まれ、1634年に、ターナーの書いた最後の草案が公布された。イングランド内戦時、ターナーは騎士党側に所属し1641年にストウ=オン=ザ=ウォルド近くで捕らえられた。1643年の収監者の交換までサザークに収容された。1648年の国会議員監査(英語版)でメルトンのフェローシップと教職から退くこととなり、1652年に貧困で没した。実質的な出版物はほとんどないが、現代では数学者・古典学者としてよい評判を受けている[18]。 |
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ウォリス, ジョンジョン・ウォリス |
1649–1703 |
Cambridge, Emmaケンブリッジ大学エマニュエル・カレッジ |
エクセター・カレッジ[注釈 4] |
ケンブリッジ大学に入学する以前、15歳のウォリスは兄から多分野に渡って数学を教えられた。後に自伝の中で、その後は"余暇の気分転換"として数学を独習したことと、当時の数学は"大学レベルの学問研究としての科目"というよりは"貿易商、商人、航海者、大工、測量士など"のためのものだと考えられていたことを書いている[6]。イングランド内戦で騎士党側で働くうちに、暗号理論に興味を持った。王立協会創立会員の一人で、60以上の論文と書評を執筆した。幾何学教授に指名された後は、"当時の一流数学者の一人"と述べられるほど自身の数学のスキルを伸ばした[6]。無限を表す記号として∞を導入し、著作ではアイザック・ニュートンに影響を与え、ブレーズ・パスカルとトマス・ホッブズのような学者間のさまざまな数学の討論に参加した。1658年にKeeper of the Archive(英語版)職に任命され、1660年におけるチャールズ2世のイングランド王政復古の間も職を保持し続け、没するまで務めた[6]。 |
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ハレー, エドモンドエドモンド・ハレー |
1704–1742 |
Oxford, Queensクイーンズ・カレッジ(英語版) |
Queenクイーンズ・カレッジ(英語版)[注釈 5] |
ハーレーは現在ハレー彗星と呼ばれる彗星の軌道を計算したことで知られる数学者。学部学生時代にはすでにヨーロッパ大陸の天文学者と文通し、3つの論文を執筆した。1677年に水星の太陽面通過を観測するためオックスフォードからセントヘレナに旅立ち、太陽との距離を計算した。このときの仕事により、ハーレーはヨーロッパで高い評判を得て22歳で王立協会に選出された。アイザック・ニュートンに惑星の軌道について尋ねたことがきっかけで、1687年にニュートンは自身の研究を再開し『自然哲学の数学的諸原理』の執筆を始めた。ハーレーは書籍の執筆を監督し、出版費を賄った。 1691年にはサヴィル天文学教授(英語版)として指名されなかったが、ニュートンによって王立造幣局に職を得た。 彼自身の作品に虹や工学や気圧計に関する議論があり、カエサルのブリタンニア侵攻の開催地を汐の満ち引きから計算した。またイギリス海軍のために航海の調査を実行して、幾世紀の間の太陽、月、惑星の位置の表を完成させた。1721年、王室天文官に選ばれた[19]。 |
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ブリス, ナサニエルナサニエル・ブリス |
1742–1764 |
Oxford, Pembrokeペンブローク・カレッジ(英語版) |
ペンブローク・カレッジ(英語版)[注釈 6] |
ブリスは1736年にセント・エッベズ・チャーチ(英語版)のレクター(英語版)に任命された。ハーレーの後任を申し込んだ際は、王室天文官のジェームズ・ブラッドリーとケンブリッジ大学の天文学教授(英語版)ロバート・スミス(英語版)などの支援者がいた。教授職に就くと、彼の公式の住居近くのオックスフォード・シティ・ウォール(英語版)の一部に彼の装置を取り付けて、街で4番目の観測施設を建設した。ブリスはブラッドリーとシャーバーン城(英語版)に観測所を持つジョージ・パーカーに天文学用の測定器を提供した。1762年、王室天文官をブラッドリーから継いだが、1764年に急逝した[20]。 |
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ジョセフ・ベッツ(英語版) |
1765–1766 |
Oxford, Univユニヴァーシティ・カレッジ(英語版) |
ニュー・カレッジ(英語版) |
ベッツは1763年にサヴィル天文学教授(英語版)に就任を試みたが失敗し、代わりにトマス・ホンスビー(英語版)が選ばれた。投票の際の後援者には学長(英語版)のジョージ・リーと首相のジョン・ステュアート、国務大臣のジョージ・モンタギュー=ダンクがいた。彼らへの感謝としてベッツは1764年4月1日の日食のプリントを贈呈した[21]。 |
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ジョン・スミス(英語版) |
1766–1796 |
Oxford, Balliolベリオール・カレッジ及びセント・メアリー・ホール(英語版) |
ニュー・カレッジ(英語版) |
1744年からベリオールで学び、1748年に学士、1751年に修士、1753年に内科学学士(英語版)を獲得した。セント・メアリー・ホールで医学博士(英語版)を取得し、1784年にチェルトナムで医師になったが、アブラハム・ロバートソン(英語版)が代理を務めた[22][23]。スミスは中世の市壁の一部を壊し、教授職の公式住宅の正面に馬小屋と小さい家屋を建て、遺書に"かなり誇張した"条項で教授職後継者に寄贈した[16]。 |
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アブラハム・ロバートソン(英語版) |
1797–1810 |
Oxford, Christクライスト・チャーチ |
クライスト・チャーチ[注釈 7] |
ロバートソンはオックスフォードで力学の夜間学校を運営したが失敗し、その後24歳でオックスフォード大学にて勉強を始めた。ジョン・スミスに支援され1784年にチェルナントムのスミスの医務の代理を務めた。講師としてよく知られており、生徒を奮起させた彼の明晰さと援助で著名である。1795年、円錐曲線に関する作品(1792年の Sectionum conicarum libri septem )と"文学的な功績と科学の追求への勤勉さ"で王立協会フェローに選出された[23]。アルキメデスの作品を編集した物の出版の監督を行った。1797年スミスの後を継ぎ幾何学教授になり、1810年サヴィル天文学教授(英語版)になった[23][24]。 |
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スティーヴン・リゴー(英語版) |
1810–1827 |
Oxford, Exeterエクセター・カレッジ |
[注釈 8] |
リゴーの父はニュー天文台(英語版)所長でエクセター・カレッジにて初めて天文の記録を取り、学部学生の時にフェローに選出された。1805年頃からトマス・ホンスビー(英語版)が病床に伏したために代理でサヴィル天文学教授(英語版)と実験哲学教授長(英語版)に就いた。1810年にロバートソンがホンスビーの後任になるとリゴーは幾何学教授席に就任した。1814年には父を継いで祖父とニュー天文台の共同所長になった。同年に妻が没すると、リゴーは子供と仕事に専念した。彼は"彼の世代で屈指の天文学・数学史家"、"彼の個性と学術的誠真で有名"であると述べられている[7]。 |
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ベーデン・パウエル(英語版) |
1827–1860 |
Oxford, Orielオリオル・カレッジ |
[注釈 9] |
パウエルはケントとロンドンの教区聖職者を務めていた際に、熱と光に関する分野で実験を実施した。自分自身で物理学における数学の進歩に追従することが難しいと悟り、また1830年に王立協会に提出したいくつかの論文には大量の間違いが含まれていた。幾何学教授の職を引き受けたときに聖職者職を辞めて、科学組織・委員会の活発な会員になり多くの作品を出版した。オックスフォード運動(イングランド国教会内のトラクト主義者と呼ばれる集団による宗教運動)に反対し、奇跡の存在を否定してダーウィンの理論を指示した姿勢でも注目された。科学研究の立場の改善など大学内の改革を主張したが彼への反対が膨らみパウエルはオックスフォードを去ることとなった。1854年にロンドンに移り、科学と文学における主要人物らと交流した。息子の一人であるロバート・ベーデン=パウエルはスカウト運動の創設者[25]。 |
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ヘンリー・スミス(英語版) |
1861–1883 |
Oxford, Balliolベリオール・カレッジ |
ベリオール・カレッジ及びコーパス・クリスティ・カレッジ[注釈 10] |
スミスの学部研究は天然痘とマラリアの流行で中断されたが、病み上がりにパリで研究を続け古典学(英語版)と数学で一等の学位を獲得した。ベリオール・カレッジでフェローとなって数学の講師を務めた。またカレッジの研究所を監督し、科学を教えた。他の大学と共同で数学の講義を行えるように手配したシステムは、他大学や他教科で採用されるようになり、ある大学では大学の根幹的な講義体制に組み込まれたこともあった。 1874年からオックスフォード大学自然歴史博物館(英語版)館長を務めた。大学の委員会や科学教育・大学部門の王立委員会に深く関与し、オックスフォード大学における科学と数学の地位を訴えた。数学においては主に幾何学、楕円函数論、数論を専攻した[26]。 |
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シルヴェスター, ジェームズジェームズ・シルヴェスター |
1883–1894 |
Londonロンドン大学とケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ(英語版) |
ニュー・カレッジ(英語版) |
14歳でロンドン大学に入学したが、文献によれば、他の生徒への暴行を理由に退学した。ケンブリッジ大学ではセカンドラングラー(英語版)(ケンブリッジ大学のある試験において次席となったものに与えられる称号)になる資格を得たがユダヤ人であることを理由に受賞できず学位とフェローシップも受けなかった。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで自然哲学の教授を3年務め、1841年バージニア大学に移動し1842年に大学当局と揉めて辞職した。イングランドに帰国して一時期、アクチュアリーとして働いた。1855年に王立陸軍士官学校の教授に抜擢されるまでの余暇には消去理論(英語版)を研究した。55歳の定年退職の後、詩を書いたりクラブ(英語版)に参加したりして過ごし、1876年にアメリカに戻って新設されたジョンズ・ホプキンズ大学の数学教授に就いた。不変式論(英語版)と行列理論の研究意欲が湧き、自身の算出した結果を創刊した雑誌 American Journal of Mathematics(英語版) に掲載した。この間にコプリ・メダルを授与された。ホームシックを患い(オックスフォードがユダヤ人に対する学問の基準を下げたため)シルヴェスターはサヴィル教授職に応募し、任命を受ける前にホプキンズ大学から去った。適切な講義題目が見つからず、1885年に就任講義を遅らせた。病気に罹り、1892年に副教授が配属され1894年に辞職した。1901年に彼を称えてシルヴェスター・メダルが設立された[27]。 |
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ウィリアム・エッソン(英語版) |
1897–1916 |
Oxford, St Johnセント・ジョンズ・カレッジ |
ニュー・カレッジ(英語版) |
1860年からマートン・カレッジのフェローであるエッソンは1894年から1897年にニューカレッジのフェローになるまで副教授として活動していた[28]。オーガスタス・ハーコート(英語版)との化学変化の割合に関する共著作品(『フィロソフィカル・トランザクションズ』の3つの論文で30年以上に渡り発表)によって1869年に王立協会フェロー選出。ある死亡記事には、彼の残りの論文は"莫大でもなく偉大な重要性もない"と書かれている[29]。『タイムズ』誌の死亡記事では"高等数学とその自然科学とのつながりに専念し大きな成功を収めた"、"数学の科学において指折りのベテラン"と述べられている[30]。 |
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ハーディ, ゴッドフレイ・ハロルドゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ |
1919–1931 |
Cambridge, Trinityケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ |
ニュー・カレッジ(英語版) |
ハーディは1900年にトリニティ・カレッジで成績優秀者に選ばれ、同年に論文を執筆した(生涯で発表した論文は350以上に上る)。1911年からリトルウッドと協力した様子は"数学史の中でもっとも有名"であると述べられている[31]。以降、素数や解析学、解析的整数論、ウェアリングの問題の解決など多分野で100人以上の人物と共著論文を書いた。インドの天才数学者シュリニヴァーサ・ラマヌジャンとの協力も著名な出来事となっている。同僚のバートランド・ラッセルとは友人で、第一次世界大戦でラッセルが平和主義的な立場を取ったことを理由にケンブリッジ大学に解任されたことを悔やんでいる。オックスフォード大学で幸せな生活を送ったが1931年にサッドリー純粋数学教授(英語版)職を引き受けたことを理由にケンブリッジへ帰った。集団遺伝学への貢献ではハーディー・ワインベルクの法則で知られる。これについて、ハーディの伝記を執筆したケンブリッジ大学の数学者ベラ・バラバシは、ハーディが自身のしたことを"良くも悪くも"、"世界が快適になることに全くの影響"を与えなかったと評価した数少ない例外の一つとして記録している[31]。 |
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エドワード・ティッチマーシュ(英語版) |
1931–1963 |
Oxford, Balliolベリオール・カレッジ |
ニュー・カレッジ(英語版) |
ティッチマーシュはハーディのもとで学び1923年にユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで教職を得る前はハーディの秘書として働いた。1924年から1930年まではモードリン・カレッジ の非常勤フェローだった。1929年から1931年にハーディの後任となるまではリヴァプール大学で純粋数学の教授をしていた。ティッチマーシュは(ハーディと違って)応募時に幾何学を講義することをいとわれず、彼のためにオックスフォードの教授職に関するある規定が削除された。彼はオックスフォード大学の数学の重要人物で広い分野で論文等は発表し、1955年に王立協会からシルヴェスター・メダルを授与された。講義には消極的であった[13]。 |
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アティヤ, マイケルマイケル・アティヤ |
1963–1969 |
Cambridge, Trinityケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ |
ニュー・カレッジ(英語版) |
アティヤはケンブリッジ大学とプリンストン大学で教鞭を執り研究を行った。1961年にセント・キャサリンズ・カレッジ(英語版)のフェローとしてオックスフォード大学に移り、サヴィル幾何学教授を任される前は準教授に就いていた。1969年にプリンストン大学に戻ったが1973年に王立協会研究教授として再びオックスフォードに帰った。 1990年から1997年まではケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ部局長を務め、2005年から2008年まではエディンバラ王立協会(英語版)会長に就任していた。 1983年ナイトを叙せられて、1992年にはメリット勲章受章者となった。K理論と、(理論物理学分野で主に使われる)アティヤ=シンガーの指数定理の功績で1966年にフィールズ賞、1988年にコプリ・メダルを獲得した[32][33]。 |
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イオアン・ジェームズ(英語版) |
1970–1995 |
Oxford, Queensクイーンズ・カレッジ(英語版) |
ニュー・カレッジ(英語版) |
オックスフォード大学で修学した後、ジェームズはプリンストン大学とカリフォルニア大学バークレー校で研究した。ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジの研究フェローとしてイギリスに帰国した。1957年ジェームズはオックスフォード大学の純粋数学の準教授となり、1959年からサヴィル幾何学教授となる1970年までセント・ジョンズ・カレッジの研究フェローとして働いた。1995年に引退し名誉教授となった。主な分野は位相幾何学、特にホモトピーで、位相幾何学史の探究や位相幾何学に関する雑誌の編集も行っていた[34]。 |
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テイラー, リチャードリチャード・テイラー |
1995–1996 |
Cambridge, Clareケンブリッジ大学クレア・カレッジ |
ニュー・カレッジ(英語版) |
テイラーはケンブリッジ大学とプリンストン大学で学問を修めた。1988年クレア・カレッジのフェローになり、1995年オックスフォードに移動した。しかしその2年後にハーバード大学に職を引き受けた[35]。主にラングランズ・プログラムを研究し、佐藤・テイト予想を解決し、アンドリュー・ワイルズと協力してフェルマーの最終定理の解決に寄与した[36]。2007年(ロバート・ラングランズとともに)"素数と対称性を結び付ける数学の壮大な統一ヴィジョンの先駆と発展"に対して、ショウ賞を受賞した[37]。 |
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ナイジェル・ヒッチン |
1997–2016 |
Oxford, Jesusジーザス・カレッジ及びウォルフソン・カレッジ(英語版) |
ニュー・カレッジ(英語版) |
ヒッチンはプリンストン大学とニューヨーク大学で教鞭を執り、更なる研究のためにウォルフソン・カレッジに帰った。セント・キャサリンズ・カレッジ(英語版) フェロー・講師を経てウォーリック大学の数学教授やローズ・ボール数学教授(英語版)(1994年)を歴任した。研究分野は微分幾何学、代数幾何学、超ケーラー多様体、シンプレクティック多様体[38]。 |
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フランシス・カーワン(英語版) |
2017年 - 現在 |
Cambridge, Clareケンブリッジ大学クレア・カレッジ及びベリオール・カレッジ |
ニュー・カレッジ(英語版) |
カーワンは1983年から1985年までハーバード大学のジュニア・フェローシップ、1983年から1986年まではモードリン・カレッジのフェローシップを保持していた。その後ベリオール・カレッジのフェローとなった。研究分野には代数幾何学におけるモジュライ空間や幾何不変理論(GIT)、GITとシンプレクティック幾何学におけるモーメント写像との関係が含まれる。代数的・位相幾何学的性質を研究し、幾何学的対象の構造を理解する事を目指している[39]。 |