トップQs
タイムライン
チャット
視点
ジャワ (軽巡洋艦)
ウィキペディアから
Remove ads
ジャワ (Hr. Ms. Java) は、オランダ海軍の軽巡洋艦[注釈 1]。ジャワ級。 建造にはクルップ社(ドイツ帝国企業)の技術援助を受けている[2]。第一次世界大戦中に起工したが、竣工したのは1925年だった[3]。観艦式のため、大日本帝国を訪問したこともある[4]。 第二次世界大戦の太平洋戦争勃発後の1942年2月末、スラバヤ沖海戦で沈没した[5]。
Remove ads
艦歴
要約
視点
K.M.シェルデ社フリッシンゲン造船所において1916年(大正5年)5月31日に起工し、1921年(大正10年)8月9日に進水、1925年(大正14年)5月1日に就役した[1]。同年10月初旬にアムステルダムを出発した。12月上旬、インドネシア北ジャカルタのタンジュンプリオクに到着した。海防戦艦「デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン」より東インド艦隊の旗艦を引き継ぐ[6][注釈 2]。
1928年(昭和3年)12月4日[8][9]、横浜沖合の東京湾で大日本帝国は御大礼特別観艦式を実施した[10][注釈 3][注釈 4]。 この特別観艦式に「ジャワ」[12][4](オランダ東インド艦隊旗艦)も参列する[注釈 5]。 後にスラバヤ沖海戦でジャワを撃沈する重巡「那智」も[1][14]、この御大礼特別観艦式に参列していた[15][注釈 6]。 6日、ホクストラ少将(オランダ東印度艦隊司令官)は昭和天皇に拝謁した[17]。ジャワ艦長も勲三等瑞宝章を授与された[13]。その後、乗組員らは松浦厚邸で歓待を受けた[18]。 8日、「ジャワ」は横浜港を出港する[19]。名古屋港、神戸港、長崎港に寄港したあと、18日に長崎から離日した[20]。
1933年(昭和8年)2月4日[21]、給料の削減をきっかけに[22][注釈 7]、海防戦艦(砲艦)「デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン」で反乱が勃発した[24]。「ジャワ」は駆逐艦2隻を率いてスラバヤを出発し、2月10日に「デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン」を捕捉して降伏勧告を行う[注釈 8]。無視されたので、水上機2機が爆撃をおこなう[注釈 8]。艦橋への直撃弾で首謀者たちが死亡し[26]、反乱艦は降伏した[7]。
1934年(昭和9年)5月30日、日本海軍の東郷平八郎元帥が死去し[27]、6月5日に国葬がおこなわれた[28]。列強各国はアジア方面に配置していた巡洋艦と、艦隊司令官(司令長官)を日本に派遣する[29][30]。 オランダもスラバヤ在泊中の本艦を派遣したが、横浜港で実施された式典に間に合わなかったという[31]。同年から1935年にかけて、近代化改装をおこなった[1]。
1936年(昭和11年)8月23日、ジャワ島スラバヤでオランダの観艦式がおこなわれ、軽巡2隻(ジャワ、スマトラ)と駆逐艦3隻(ピート・ハイン、ヴァン・ガレン、ヴィッテ・デ・ウィット)などが参加した。 同年11月13日、ヘルフリッヒ提督が率いるオランダ軽巡2隻(ジャワ、スマトラ)と駆逐艦3隻および潜水艦部隊はシンガポールを訪問した[32][33]。 同地滞在中の蘭印艦隊は、イギリス海軍各艦、合衆国アジア艦隊(重巡オーガスタなど、司令官ヤーネル少将)と交流した[33][34]。。
その後、「ジャワ」はヨーロッパに戻る。1937年(昭和12年)5月20日、ジョージ6世戴冠記念観艦式に参列した[注釈 9][注釈 10]。
1938年(昭和13年)5月、「ジャワ」はヨーロッパを離れてオランダ領東インドに移動する。蘭印到着後の10月13日、スンダ海峡でオランダ駆逐艦「ピート・ハイン」で衝突事故を起こし、スラバヤで修理をおこなった。
1939年(昭和14年)9月に第二次世界大戦がはじまったとき、オランダ王国は中立を宣言した(オランダの歴史)。1940年(昭和15年)5月にナチス・ドイツの侵攻で本国が占領され、オランダ亡命政府がイギリスで樹立した(第二次世界大戦時のオランダ女王)。ドイツ海軍はインド洋やオーストラリア近海でも活動しており、極東配備のオランダ海軍艦艇も船団護衛に従事した。
1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争(大東亜戦争)以降、本艦はABDA艦隊の主力艦として日本軍の蘭印作戦に立ち向かう[注釈 11]。1942年(昭和17年)2月14日、ガスパル海峡海空戦に参加、日本海軍の航空攻撃で退却を余儀なくされた[36]。2月20日、バリ島沖海戦に参加する[37][注釈 12]。
2月27日[40]、スラバヤ沖海戦[41](連合軍呼称[42]、“ジャヴァ海海戦”)に参加[43][44]。日本海軍の妙高型重巡洋艦および水雷戦隊[注釈 13]との昼間砲雷撃戦により、ABDA艦隊の駆逐艦2隻が沈没し、イギリス海軍の重巡「エクセター」が損傷して戦場を離脱した[47][48]。 ABDA艦隊を率いるカレル・ドールマン少将は、健在の巡洋艦を率いて第五戦隊(那智、羽黒)に夜戦を挑む[5][49]。日本時間2月28日の日付変更直後、第五戦隊が連合軍巡洋艦4隻(デ・ロイテル、ヒューストン、パース、ジャワ)に魚雷攻撃をおこなう[50][注釈 14]。この雷撃が本艦と旗艦「デ・ロイテル」に命中し、2隻とも沈没した[14][51]。同航していたアメリカ海軍の重巡「ヒューストン」とオーストラリア海軍の軽巡「パース」は、雷撃を回避して逃げ延びた[注釈 15][注釈 16]。
3月1日、哨戒中の第五戦隊および駆逐艦「山風」と「江風」は漂流する「ジャワ」の生存者を発見、37名を救助した[56]。第四水雷戦隊の戦闘詳報によれば、救助されたジャワ生存者1名が、他艦の捕虜と共に日本陸軍に引き渡された[57]。
Remove ads
出典
参考文献
関連項目
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads