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ジュール・マザラン

フランス王国の宰相 (1602-1661) ウィキペディアから

ジュール・マザラン
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ジュール・マザランフランス語: Jules Mazarin, 1602年7月14日 - 1661年3月9日)は、17世紀フランス王国政治家枢機卿イタリア人でイタリア名はジュリオ・マッツァリーノイタリア語: Giulio Mazarino)またはジュリオ・マザリーニイタリア語: Giulio Mazarini)。ラテン語形はユリウス・ライムンドゥス・マザリヌスラテン語: Iulius Raimundus Mazarinus)なので、ジュール・レーモン・マザランとも。

概要 ジュール・レイモン・マザラン Jules Raymond Mazarin, 首都大司教管区 ...
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生涯

イタリア中部ピッシーナに生まれる。庶子であったともいう。父ピエトロがシチリアのマッツァリーノ城塞で生まれたため、その名を名乗り始める。外交の能力を認められてローマ教皇に仕える。

1630年マントヴァ継承戦争イタリア語版英語版において、一時停戦の約を破って進軍したリシュリューの部隊の前にマザランが単騎で現れ、停戦を呼びかけたという逸話が残されている。1634年、教皇特使としてパリに派遣されたときにリシュリューの信任を得る。

1639年、フランスに帰化し、1641年ルイ13世の推挙によりウルバヌス8世によって枢機卿に就任。

1642年にリシュリュー、1643年にルイ13世が相次いで死ぬと、摂政となった太后アンヌ・ドートリッシュの相談役兼ルイ14世の教育係となる。辞令そのものは出ていないが、実質的な宰相であった。アンヌとは秘密結婚をするまでの仲だったともいわれ、ルイ14世はマザランの子とする説もあるが、アンヌがルイ14世を妊娠した1637年の12月5日にはマザランはまだイタリアにいたため、これは根拠のない噂話である。

1661年にマザランが死ぬと、翌日ルイ14世は親政を宣言、王政フランスの絶頂期へと至った。マザラン自身がルイ14世に親政を勧めたともいう。亡骸はフランス学士院に葬られている。

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功績

政策的にはリシュリューを継承し、後のルイ14世の絶対王政の地均しをした。具体的には以下のとおり。

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親族

自身は聖職者のため独身だが、下の妹ジェローラマ・マザリーニが生んだ5人の姪ラウラオリンピアマリーオルタンスマリー・アンヌを政略結婚に利用した。ルイ14世の愛妾も含まれているという。ポールフィリップの兄弟も軍人、貴族に取り立てられた。また、上の妹ラウラ・マルゲリータ・マッツァリーニの娘であるアンヌ・マリーラウラ姉妹も同様に政略結婚に利用、それぞれコンティ公アルマンモデナアルフォンソ4世・デステに嫁いだ。これら7人の姪はマザリネットと呼ばれた。

関連項目

脚注

外部リンク

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