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ジョン・ケリー・シニア (フォーク・ミュージシャン)
アイルランドのフィドル・コンサーティーナ奏者 (1912-1989) ウィキペディアから
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ジョン・ケリー(John Kelly、1912年 – 1989年)は、アイルランドのフィドル・コンサーティーナ奏者。同名の息子との区別のため、ジョン・ケリー・シニアと呼ばれることがある。
略歴
ジョンは1912年、クレア県西南端ループ・ヘッド半島のRehy West(Kilbaha近く)にて、父マイケル (Michael) と母エリザベス (Elizabeth) の間に生まれた[1]。ジョンは幼少期、エリザベスや近くのKilclogherに住む伯父トム・キーン (Tom Keane) の演奏するコンサーティーナを聴いて育った[2]。
1945年、ジョンはウィックロー県出身のフランシス・ヒリヤード (Frances Hilliard) と結婚して[3]ダブリンに移り住み、カペル・ストリート (Capel Street) に小さな楽器店 The Horse Shoe Shop を開いた。以降の数十年間、ダブリンでの伝統音楽の発展に大きく関わる[1]。
1989年3月、77歳で亡くなる[3]。
ダブリンでの音楽活動
1935年の公共ダンスホール法Public Dance Halls Act 1935以来ダンス音楽が低調となっていた中、ダブリンでジョンが開いた店は伝統音楽のミュージシャンにとって貴重な存在であり、市外から来たミュージシャンが立ち寄り出会う場として知られるようになった[3]。
1936年に復活し、1946年にトーマス・ストリート (Thomas Street) へ移転したパイパーズ・クラブ (Pipers’ Club)[4]は、当時のダブリンの伝統音楽の場の一つとなっていたが、ジョンはそこでの音楽への参加を通じてレオ・ロウサム、トミー・レック (Tommy Reck) 、トミー・ポッツといったダブリンのミュージシャンと知り合っていった[3]。
1959年にショーン・オリアダ (Seán Ó Riada) のバンド、キョールトリ・クーランの創設に参加した[5]。
1960年代にはキャッスル・ケーリー・バンド (The Castle Ceilí Band) に参加しており、1965年フラー・キョールのケーリーバンド・シニア部門優勝時のメンバの一員である[1]。
1960年代中頃から1980年代まで、ジョンは同じクレア県出身の友人であるフィドル奏者ジョー・ライアン (Joe Ryan) と共にダブリン市内メリオン・ロー (Merrion Row) のパブ、オドノヒューズ (O' Donoghues) にて、毎週金曜土曜の夜にセッションを行った。このセッションには、ウィリー・クランシー、ボビー・ケイシー (Bobby Casey) 、デニス・マーフィー、フェリックス・ドラン (Felix Doran) を始めとして、大変多くのミュージシャンが参加していた[1]。
1971年、ショーン・オリアダの死を受けてエイモン・デ・バトラーがキョールトリ・クーランの後継として結成したバンド、Ceoltóirí Laighean[6]にも参加している。
1973年に初めて開かれたウィリー・クランシー・サマー・スクールでは、フィドル・クラスの教師を担当している[1]。
1975年に、トピック・レコードからソロ・アルバムをリリース、現在まで多くのミュージシャンに影響を与えている。
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家族
母エリザベスはコンサーティーナを演奏し、いくつかのtuneにもその名を残す[7]。
エリザベスの母メアリー・ブレナン(Mary Brennan、1855年 - 1928年)の出身地であるシャノン湾の小島カハー島(Scattery island、1969年以降は無人島)は、ケリー家の音楽にとっても重要な存在である。往時のカハー島は、海上であるがゆえクレア県ながらも交流のあるケリー県やノルウェーといった他の土地との影響を受けており、また伝統音楽も盛んだった。なお、メアリーもホーンパイプ「Mary Brennan’s Favourite」に名を残している[8]。
ジョンの子供たちは全員ミュージシャンである[1]。1976年、息子のうちジョン・ジュニア (John Jnr.) とジェームズ(James、1957年生)の兄弟はフィドル・デュオのアルバム「John and James Kelly: Irish Traditional Fiddle Music」をタラ・ミュージックからリリースしている[9]。また、翌1977年には、RTÉの番組『FONN』での親子3人のトリプル・フィドルの演奏が残されている[10]。
ジェームズは1984年にマイアミへ移住したが[11]、以降もアイルランドを頻繁に訪れている。1988年にはRTÉの音楽番組『Pure Drop』の司会を務めている[12]。2006年にはアイルランド語のTV局TG4の 'グラダム・キョール (Gradam Ceoil) TG4' にてミュージシャン・オヴ・ジ・イヤー (Musician of the Year) を受賞した[13]。
ディスコグラフィー
- John Kelly – Fiddle and Concertina Player (1975年、トピック・レコード) [14]
脚注
外部リンク
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