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ジョー・アーネスト・クレイン
神奈川県横浜市出身のゴルフ場設計者(1892 - 1980) ウィキペディアから
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ジョー・アーネスト・クレイン(英: Joseph Ernest Crane、1892年(明治25年)5月27日 - 1980年(昭和55年)3月30日)は、神奈川県横浜市出身のゴルフ場設計者。
人物
ジョー・E・クレーンは、1892年(明治25年)5月27日、横浜市保土ケ谷区神戸町に、イギリス人の貿易商の父と日本人の母の3男に生まれた[1]。1899年(明治32年)、7歳の時、父と兵庫県神戸に移住した[1]。長兄はハリー・C・クレイン (Harry C. Crane)、次兄はバーティ・E・クレイン (Bertie E. Crane)、末の弟のジョーの3兄弟だった[1]。
ジョーは、長兄ハリーの影響を受け、1918年(大正7年)、26歳の頃から「神戸ゴルフ倶楽部」(兵庫県、1903年(明治36年)開場)でプレーを楽しんだ[1]。クレイン兄弟は、六甲山頂までの交通の便が良くないことから、手軽な場所にゴルフ場があればと、1920年(大正9年)、鳴尾浜に3ホールのコースを造った[1]。翌1921年(大正10年)、増設して9ホールのゴルフ場になった、1922年(大正11年)、日本で最初の芝のグリーンが造られた[1]。
1920年(大正9年)、ジョーにるゴルフ場の設計第1号「垂水ゴルフ倶楽部」(兵庫県、日本で現存する6番目に歴史の古いコース)が開場された[1]。1930年(昭和5年)、鳴尾の9ホールが、鳴尾から猪名川(現・川西市)に移転された[1]。1920年(大正9年)、「鳴尾ゴルフ倶楽部・猪名川コース」(兵庫県)は、クレイン兄弟によって完成し、開場された[1]。
太平洋戦争から、ジョーが1980年(昭和55年)に亡くなるまで、関西地区に設計したコースは24コースである[1]。ジョーの設計理念は「戦略性」を重要視し、1グリインのコースであること、上級者からアベレージゴルファーまで満足させるコース造りを心掛けた[1]。高低差のある地形や丘陵地であってもフラットなコースを造ること、ブラインドコースを避けプレーをスムーズにすること、できるだけ自然を残すことなどを重視した[1]。
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主な設計コース
- 1920年(大正9年)
- 「垂水ゴルフ倶楽部」(旧・舞子カントリー倶楽部)兵庫県神戸市
- 1930年(昭和5年)
- 「鳴尾ゴルフ倶楽部」兵庫県川西市
- 「岡山霞橋ゴルフ倶楽部」岡山県倉敷市
- 1959年(昭和34年)
- 「花屋敷ゴルフ倶楽部・ひろのコース」兵庫県三木市
- 1960年(昭和35年)
- 「泉南カンツリークラブ」大阪府泉南市[2]
- 1961年(昭和36年)
- 「三好カントリー倶楽部・西コース」愛知県三好町
- 「西宮高原ゴルフ倶楽部」兵庫県西宮市[3]
- 1962年(昭和37年)
- 「大熱海国際ゴルフクラブ」静岡県伊豆の国市[4]
- 1964年(昭和39年)
- 「宝塚高原ゴルフクラブ」兵庫県宝塚市[5]
- 「さなげカントリークラブ」愛知県豊田市
- 1965年(昭和40年)
- 「千刈カンツリー倶楽部」兵庫県三田市
- 「日本ダイヤモンドゴルフ倶楽部」和歌山県那智勝浦町[6]
- 1966年(昭和41年)
- 「日清都カントリークラブ」京都府宇治市[7]
- 1969年(昭和44年)
- 「三好カントリー倶楽部・東コース」愛知県三好町
- 「月ヶ瀬カントリークラブ・東コース」京都府相良郡[8]
- 1972年(昭和47年)
- 「穂高カントリークラブ」長野県安曇野市
- 1973年(昭和48年)
- 1974年(昭和49年)
- 「明智ゴルフ倶楽部」岐阜県恵那市[11]
- 1975年(昭和50年)
- 1976年(昭和51年)
- 「こんぴらレイクサイドゴルフ倶楽部・東コース」(2017年(平成29年)閉鎖)香川県まんのう町
- 1978年(昭和53年)
- 「日本海ゴルフ倶楽部・稲葉山コース」鳥取県岩美町[13]
- 1980年(昭和55年)
- 「篠山ゴルフ倶楽部」兵庫県篠山市[14]
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脚註
関連文献
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