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タイガー・コンウェイ・ジュニア

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タイガー・コンウェイ・ジュニア
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タイガー・コンウェイ・ジュニアTiger Conway Jr. 、本名:Plasee Dennis Conway Jr. 1953年5月18日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーテキサス州ヒューストン出身のアフリカ系アメリカ人

概要 タイガー・コンウェイ・ジュニア, プロフィール ...

地元のテキサスをはじめとするNWA南部テリトリーを主戦場に、アフロヘアー黒人ベビーフェイスとして人気を集めた[2]。"Texas Negro champion" として1960年代に活躍したタイガー・コンウェイ・シニア英語版の息子である[3]

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来歴

要約
視点

アメリカンフットボールで活動後、父タイガー・コンウェイ・シニア英語版のトレーニングを受けて1971年にデビューするが[2]、体が小さかったため、当初はレフェリーをしていたともされる[1]テキサスを皮切りに、ジョージア地区セントラル・ステーツ地区などを転戦してキャリアを重ねる。ジョージアでは覆面レスラーとなり、アール・メイナードブラック・クルセーダーズThe Black Crusaders)なる黒人覆面タッグチームを結成、テリー・ガービン&ロニー・ガービンのガービン・ブラザーズと抗争した[4]

1974年5月よりミッドアトランティック地区に進出[5]フェイスターンしていたスウェード・ハンセンのパートナーに起用され、それまでハンセンとタッグを組んでいたリップ・ホークと、ホークの「甥」として売り出し中だったリック・フレアー[6]とのタッグ抗争を展開した[7][8]。童顔でアイドル的な人気を得ていたことから、フレアーは自著において「コンウェイの人気にあやかれることを期待していた」などと当時を述懐している[8]。同年12月6日にはポール・ジョーンズと組み、フレアー&ブルート・バーナードを破ってNWAミッドアトランティック・タッグ王座を獲得[9]。同王座は1977年4月10日にも、ディノ・ブラボーをパートナーにジェリー・ブラウン&バディ・ロバーツハリウッド・ブロンズから獲得したが、6月30日にフレアー&グレッグ・バレンタインに奪取されている[9]

1977年末よりテキサスに戻り、フリッツ・フォン・エリックが主宰していたダラスのNWAビッグタイム・レスリング(後のWCCW)に参戦。1978年12月17日、当時ベビーフェイスのポジションにいたブル・ラモスとの異色コンビで、マーク・ルーイン&キラー・カール・クラップを下してNWAテキサス・タッグ王座を獲得[10]。その後も同王座には、1979年デビッド・フォン・エリック1980年ケリー・フォン・エリックと組んで戴冠している[10]ホセ・ロザリオともタッグを組み、ジノ・ヘルナンデス&エル・グラン・マルクスやミスター・ヒト&ミスター・サクラダなどのチームとNWAアメリカン・タッグ王座を争った[11]

1981年からはサンアントニオを本拠地とするサウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリングで活動。ワフー・マクダニエルマニー・フェルナンデススコット・ケーシー、そして同地区ではベビーフェイスとして活躍していたボビー・ダンカンブルーザー・ブロディとも共闘し、タンク・パットンタリー・ブランチャードバック・ロブレイキラー・ブルックスボビー・ジャガーズミスター・ポーゴなどと対戦[12][13]。パットンとはブラスナックル王座を巡る抗争劇を繰り広げた[14]

ホームタウンのヒューストンに進出していたビル・ワットのMSWAにも参戦して、1983年3月12日にミスター・レスリング2号と組んでテッド・デビアス&マット・ボーンからミッドサウス・タッグ王座を奪取[15]1984年1985年にはWWFのテキサスでの興行にも出場、プレイボーイ・バディ・ローズムーンドッグ・スポットから勝利を収めている[16][17]1986年はサウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリングの後継団体であるテキサス・オールスター・レスリングにて、アイスマン・キング・パーソンズとの黒人コンビで活躍した[18]

1987年、古巣のミッドアトランティック地区にてシャスカ・ワトレーをパートナーに、サミー・デイヴィス・ジュニアなど往年の黒人エンターテイナーをイメージしたタッグチーム、ジャイブ・トーンズThe Jive Tones)を結成[19]。ベビーフェイス的なギミックでありながらヒールのポジションで活動し、ブラッド・アームストロング&ティム・ホーナーのライトニング・エクスプレスと抗争[20]ジミー・バリアント&バグジー・マグローファビュラス・フリーバーズマイケル・ヘイズ&ジミー・ガービン)、ロード・ウォリアーズとも対戦した[20][21]

1989年8月にはワトレーとのジャイブ・トーンズとして全日本プロレスの『サマー・アクション・シリーズII』に初来日。陽気なパフォーマンスと多彩な連携プレイで人気を集め[1]、シリーズの外国人エース格だったアブドーラ・ザ・ブッチャーともトリオを組み、ジャイアント馬場ラッシャー木村ザ・グレート・カブキ組や天龍同盟との6人タッグマッチも行われた[19]

ジャイブ・トーンズ解散後、旧友デビアスの招きでWWFへのレギュラー参戦も計画されていたが実現には到らず[2]1990年代初頭はテキサスのインディー団体に単発出場していた[5]。引退後は故郷のヒューストンにて外構施工会社を経営している[2]

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得意技

獲得タイトル

ミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリング
NWAビッグタイム・レスリング
サウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリング
  • SCWテキサス・ブラスナックル王座:2回[14]
ミッドサウス・レスリング・アソシエーション
テキサス・オールスター・レスリング

脚注

外部リンク

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