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ティターン・バリカディ

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ティターン・バリカディ
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ティターン・バリカディ (ロシア語: Титан-Баррикады、ラテン文字転写: Titan-Barrikady) は、ロシアのヴォルゴグラードに拠点を置く国防産業企業である。1914年にバリカディ生産組合 (Barrikady Production Association) と ティターン設計局が合併して設立された[1]モスクワ熱技術研究所の子会社である[2]。正式名称は連邦研究生産センター「ティターン・バリカディ」(Акционерное общество "Федеральный научно-производственный центр "Титан-Баррикады")という。

概要 現地語社名, 種類 ...
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歴史

要約
視点

1914年にツァーリツィン兵器工場 (Tsaritsyn Weapons Factory) として設立され、ロシア革命後によりレッド・バリケードと改名された[3]。ヨーロッパ最大の軍需工場で[3]、ティターン設計局は工場付属設計局であった[4]。第二次世界大戦ではバルバロッサ作戦に巻き込まれて壊滅的な打撃を受けたが、1944年には生産を再開した[4]。ティターン設計局は、1990年に工場から分離・独立した[4]

1914年—1942年

第一次世界大戦の開戦前の時点で、ロシア帝国が保有する海軍艦艇用大口径砲の生産工場はサンクトペテルブルクオブコフ国立工場英語版 1箇所しかなかった。 このため、既に中小口径砲の生産で実績があったペルミ火砲工場英語版を中心として生産体制を整備し、ツァリーツィン (1925年にスターリングラード、1961年にヴォルゴグラードに改名)に工場を建設することが決定された。工場建設はロシア帝国砲兵工廠と、そのパートナーであったイギリスのヴィッカースにより進められることになり、1914年に建設開始、1917年には最初の砲が出荷された。また、同年からエフゲニー・アレクサンドロヴィチ・ベルカロフの指導の下、火砲の設計が行われるようになった[5]

1938年にはより強力な火砲を開発するため、イリヤ・イワノヴィチ・イワノフ率いる第221設計局 (OKB-221) が組織され、Barrikady (Баррикады) から採った "Br-" シリーズの臼砲カノン砲榴弾砲を開発した。

1942年8月、スターリングラード攻防戦の戦火を避けるため第221設計局は解散され、技術者はそれぞれ以下の工場に疎開した。

イワン・イリイチ・リュドニコフ大佐率いる第138狙撃師団とステパン・サヴェーレヴィチ・グリエフ少将率いる第39親衛自動車化狙撃師団が工場の防衛を担当したが、1942年8月から1943年1月にかけての激しい戦闘で工場の大部分が破壊された。1944年には部分的に復旧し、再び火砲を生産して前線に送り出すようになった[6]

1950年—1990年

1950年1月、特別設計局SKB-221が改めて発足し、ゲオルギー・イワノヴィチ・セルゲーエフが主任設計者となった。1950年代には、大中口径砲の設計および生産が中心であったが、石油掘削装置や原子力機器の生産も担当した。

1960年代には新たに近距離戦術弾道ミサイルシステムおよび中距離戦術ミサイルシステムと輸送起立発射機の分野にも進出した。

1973年にはヴァレリアン・マルコヴィチ・ソボレフ率いる戦略弾道ミサイル担当の OKB-1 と、セルゲーエフ率いる砲システムおよび戦術弾道ミサイル担当の OKB-2 に分割されたが、1970年代を通して協力して開発に取り組んだ。

1983年には OKB-1、OKB-2 および試作生産ラインが統合されて中央設計局 (TsKB) に改組され、OKB-1 のソボレフと OKB-2 のセルゲーエフ、それにコンスタンティン・ペトロヴィチ・イェシンが設計技師となった。1990年9月には中央設計局がバリカディ生産組合から独立し、ティターン中央設計局 (TsKB Titan) となった。1980年代には次のものを開発した。

1991年—2014年

1991年11月19日、ティターン中央設計局は国有企業として独立し、ヴィクトル・シュリーギンが主任設計技師兼ジェネラルディレクターに就任した。1990年代は主にミサイル発射装置に注力していたが、民生分野の製品についても設計・製造を行うようになった。

2004年にはティターン中央設計局はロシア連邦政府の命令により「連邦研究生産センター」に指定された。2000年代には以下の製品を開発した。

2008年には冶金工場がロステック傘下のロススペツスタール (RusSpetsStal) の子会社であるクラースヌイ・オクチャーブリ製鉄所英語版に売却された[7]。 2010年1月には公開株式会社となり、2011年3月25日からは株式会社化されたモスクワ熱技術研究所のグループ会社となった[8]

2014年以降

2014年3月7日のロシア連邦政府令 #334-p「公開株式会社 ティターン中央設計局とバリカディ生産組合の再編」に基づき、2014年10月1日をもってバリカディ生産組合の一切の資産・法的権利および義務ならびに知的財産がティターン中央設計局に移管され、「連邦研究生産センター 公開株式会社 中央設計局「ティターン」」(Федеральный научно-производственный центр ОАО ЦКБ «Титан») として統合された[9]。 これにより、ミサイルおよび火砲専業で設計から量産まで一気通貫で手掛ける兵器製造会社となった。

2016年6月には株式会社 連邦研究生産センター ティターン・バリカディ (АО Федеральный научно-производственный центр "Титан-Баррикады") に改名された。

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バリカディ工場

バリカディ工場は、重機や大型鋳鋼品および鍛造品の分野においてロシア屈指の大手メーカーである。バリカディ掘削機器工場は、ロシアの石油掘削リグ製造において、エカテリンブルクにあるウラルマシュと双璧を為している[10]

バリカディ工場では弾道ミサイルや野砲向けの移動型発射機も製造している。近隣のクラースヌイ・オクチャーブリ製鉄所から鋼材の供給を受けている[10]

脚注

外部リンク

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