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テメレール級戦列艦
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テメレール級戦列艦(テメレールきゅうせんれつかん、仏: vaisseaux de ligne de la classe Téméraire)は、フランス海軍の74門戦列艦の艦級。部品や装備を流用可能にするため同一の設計図を基に建造された最初の艦艇群の一つである[1]。
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1782年から1813年の期間に120隻以上が建造され、今日に至るまで主力艦として建造された艦級の同型艦数としては最多のものである[2][要文献特定詳細情報]。
その設計はイギリスでも高く評価され、捕獲された艦は可能な限り再就役させられ、その設計を模した戦列艦(ポンペイ級)も建造された。
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前史
→詳細は「74門艦」を参照
18世紀前半、フランス海軍では「ブルボン」をはじめとする新型戦列艦の建造を進めていた。多くの船が建造されたが、それらには寸法や備砲の構成に多少の差異があった。当初は36ポンド砲26門、18ポンド砲28門、8ポンド砲16門、4ポンド砲4門という構成が主流だったが、1739年建造の「テリブル」以降、36ポンド砲28門、18ポンド砲30門、8ポンド砲16門という構成が主流となった。
スペインでも、この規格を採用した5隻の戦列艦が1760年代にサンタンデールで建造された。
特に七年戦争で多くのフランス製74門艦を鹵獲し、それを使用したイギリス海軍は自らも同型の船の建造に着手し、やがて74門艦はヨーロッパ各国の海軍に主力艦として急速に普及した。七年戦争が終わり、多くの艦を失ったフランスでは海軍の再建過程で多くの74門艦が建造されたことで、艦の性能はさらに向上した。
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開発

ジャン=シャルル・ド・ボルダが造船技師ジャック=ノエル・サネーの協力を得て推し進めたフランス海軍再建計画では、1/48の設計図が制作され、それによって船体の構造や部品の統一が図られ、特にマストについては標準化が達成された。
当時、サネーはフリゲート(「シビーレ (Sibylle)」「エベー(Hébé)」「ヴィルジニー (Virginie)」)や従来型の74門艦(大型フリゲートに近い)における設計の優秀さで既に知られた存在だったが、1782年に「テメレール (Téméraire)」と名付けた新型74門艦の建造計画を発表した。この計画は造船における技術革新の見本となることが期待された。
「テメレール」は全長55mと同時代の74門艦と比べると大型だが、フリゲートに近い機動性と速度を備えており、また火力や砲の構成でも様々な改良が加えられていた。
特に画期的だったのは同一の設計を採用することで工期やコストを大幅に削減させたことにある。また同一設計の採用は船体の建造工程において著しい生産性の向上も実現させた。同一の部品を使用することで、部品さえあれば国内の全ての造船所において整備や定期修理が可能となった。
同型の船の採用は士官や水兵の乗り替わりを容易にし、彼らの均質化をもたらした。海上での連携のとれた艦隊行動や予備役となった艦の復帰も容易になった。
1783年、1番艦「テメレール」はブレストで進水した。
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運用史
要約
視点
高速で機動性に優れ、敵の大型艦に十分対抗できる堪航性と戦闘力を持つ74門艦は、18世紀末のヨーロッパ各国の海軍において、主力艦として急速に普及していた。
テメレール級もフランス革命戦争からナポレオン戦争を通してフランス海軍の主力となり、海戦では後に建造された高速艦のトナン級(80門)や大火力のオセアン級(118門)とともに敵艦隊を圧倒することが期待されていた。
しかし、実際の戦闘ではフランス艦隊はイギリス艦隊を相手に連敗を続けた。その原因は、兵器の性能差ではなく、革命政府や帝政の下で戦争が続いたために兵員の補充が進まず、海上での経験や技量の面で大きな差があったことが原因である。また船内の劣悪な衛生環境や食糧事情から、イギリスでは1795年に予防法が確立されていた壊血病に苦しめられる兵員も多かった。
Michèle Battesti[注釈 1]は当時のフランス海軍の惨状をこう書いている[4]。
(革命によって)貴族出身の高級将校の多くが軍を追われたことで、海軍参謀本部は機能不全に陥り、そこに人員の不足と質の低下が重なった。海軍の人員募集は、それまで以上に困難になった。私掠船との競合、そして政府の混乱によって海軍は弱体化し、反革命勢力との戦争はフランス西部と南東部での徴募に影響を与えた。徴兵を免れるための逃亡や部隊からの脱走が相次いだ。一例として、コルフ島から戻ったブリュイ提督の艦隊は兵員の脱走を防ぐためトゥーロン沖の海上に留置させられた。9ヶ月間も無給で働かされた上、その倍の期間フランスの土を踏めなかった彼らの心境は想像に難くない。
船の武装を運用する人員を確保するため、強制徴募、陸軍兵士の転用などあらゆる手段がとられた。船員は漁夫や沿岸航路・河川航路の船員を徴兵したが、彼らの中には海を見たことがない者もいた。
アブキール海戦に将校として参加したルネ・サバティエ・ド・ラシャデネードは「当時の私の部隊には少年兵しかいなかった」と証言している。
結果として多くの船が不慣れな乗組員の手で運用され、ときには出撃した艦隊の4分の1が沈められたこともあった。 一部の例外はあるものの、無能な提督や艦長の主体性のない指揮も敗因とされている。当時のフランス海軍の指揮官は、革命で貴族出身将校の多くがイギリスへ亡命した結果として昇進した者が多く、イギリス海軍の革新的戦術(ホレーショ・ネルソンがアブキール海戦で使った「十字砲火」、トラファルガーの海戦での「ネルソン・タッチ」)やカロネード砲(中距離での命中率は低いが一斉射撃することで敵艦の上部構造を破壊し、装填時間も短い)をはじめとする先進技術に適応できなかった。

しかし、これらの戦闘経験からフランス艦の優秀さを認めていたネルソンは「世界最高の海軍とは、イギリス人水兵の乗り組んだフランス製の艦で構成された海軍である」と発言したとされる。
実際に、イギリス海軍では無傷に近い状態で鹵獲できた敵艦を整備して自軍の戦力とする例は多かった。イギリス側に鹵獲されたテメレール級の多くが、イギリス海軍で使用されている。例としてアブキール湾から生還し、1800年のマルタ護送船団の海戦でイギリスに捕獲された「ジェネルー(Généreux / HMS Genereux)」、処女航海初日の1798年4月21日にラ・ド・サン海峡で英国戦列艦「マーズ (HMS Mars)」に拿捕された「エルキュール(Hercule)」がある。
艦型
外形寸法
船体は全長172フィート (55.87 m)、 全幅44フィート6インチ (14.90 m)、吃水は船体中央部で22フィート (7.26 m) 。排水量は2,900 トン。
帆走機構
3本マストの全装帆船で各檣には3段の横帆を備え、風の条件が良いときにはさらに3枚のステイセイル(ジブ)とバウスプリットセイルを張ることができた。すべの帆の面積の合計は2,485 m2である。
乗組員
1786年1月1日時点の記録によると[5]、戦時の乗員数は705名(平時は495名)と規定されており、その内訳は士官12名、士官見習7名、下士官55名、砲手(兼海兵)42名、航海士6名、船員404名、水兵(海兵や戦列歩兵)、船員見習50名、専門職(船医、調理師、等)16名、士官の従者13名、であった。
第一共和政から第一帝政期には規定が改められ、士官が13名(艦長、副長、海尉4名、少尉7名)に増員され、戦時の乗員数は706名(平時562名)となった。
武装
テメレール級は2段の砲列甲板を持ち、下方の甲板には36ポンド砲が両舷に14門ずつ装備されていた。この砲は全長3.274m、重量3,520kgで900kgの砲車に載せられていた。1門の砲を操作するのに15人の人員が必要だった。砲弾の重量は17.62kgで装填には約8分を要し、最大射程は3,700mだった。
上方の甲板には18ポンド砲が両舷に15門ずつ装備されていた。2つの砲列甲板の高さは1.75mで、士官の個室のある最後部を除く船体の多くを占めていた。
船尾楼甲板には8ポンド砲16門が配置されていた。その後、砲はカロネード砲へと徐々に更新され、砲の配置も何度か変更された。1788年には4門の36ポンド砲が追加された。
帝政期以降、残存していたテメレール級は武装の更新が行われ、船尾楼の14門の8ポンド砲が12門のカロネード砲と2門の12ポンド砲に置き換えられ、上部甲板の18ポンド砲が36ポンド砲に変更された。しかし、これらの数字は艦に搭載できた砲の最大値であり、実戦では砲や砲手の不足により、これより低い数値で運用されていた。
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同型艦
要約
視点
テメレール級
造船所:(B) ブレスト、(L) ロリアン、(R) ロシュフォール、(T) トゥーロン
デュケーヌ級
造船所:(B) ブレスト、(L) ロリアン、(R) ロシュフォール、(T) トゥーロン
シュフラン級
1801年、海軍大臣ピエール=アレクサンドル=ローラン・フォルフェの命令によりロリアンで建造された2隻の改良型テメレール級。全長が標準的なテメレール級より65cm短縮されている。このタイプの艦は1801年10月にフォルフェが大臣を辞任して以降は建造はされず、ブレストで開始されていた3番艦「パシフィカトゥール (Pacificateue)」の建造も1804年に中止された。
カサール級
主武装を18ポンド砲から24ポンド砲に換装することを目的に設計に変更が加えられた艦。1793年~1794年にかけてブレストで2隻が起工された。設計に変更が加えられ、標準的なテメレール級よりも全長で約60cm、全幅で約15cmの大型化がなされた。他のテメレール級の艦と異なり、建造は時間をかけて進められ、起工から進水までに約10年が費やされた。この設計改変は不評で、1816年までに24ポンド砲は18ポンド砲に変更され、同じ設計の艦は建造されなかった。
プリュトン級 / アルバネ級
1803年に起工した「プリュトン」から始まる縮小型テメレール級で、公式に小型モデル(petit modèle)と呼ばれた。サネーは、主要なフランスの造船所よりも水深の浅い、フランス支配下の近隣諸国や、フランス帝国に吸収された外国の港(アンヴェルスなど)の造船所で建造するためにこれを設計し、船体は垂線間長54.12m、全長54.89m、全幅14.30mに縮小され、吃水も約23cm低くなった。
造船所:(A) アンヴェルス、(Am) アムステルダム、(F) フレサング、(G) ジェノワ、(Ro) ロッテルダム、(T) トゥーロン、(V) ヴェニス
ダニューブ級
造船所:(A) アンヴェルス、(B) ブレスト、(C) シェルブール、(G) ジェーヌ、(L) ロリアン、(R) ロシュフォール、(T) トゥーロ
1808年~1813年にかけて、当時フランスの傀儡政権下にあったナポリ王国で、ダニューブ級の設計を流用した船がカステッランマーレ・ディ・スタービアで建造された。3隻が発注され、2隻が完成・就役したが、1813年11月にナポリ王国がナポレオン陣営を離脱したため3隻目は起工されなかった。
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ギャラリー
- パトリョート
- カサール
- アシーレ
- ボレー (1805)
- リヴォリ
- トリオンファン (1809)
- ヴィル・ド・マルセイユ
- シュペールブ (1814)
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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