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トマス・ハーバート (第8代ペンブルック伯爵)

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トマス・ハーバート (第8代ペンブルック伯爵)
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第8代ペンブルック伯爵および第5代モンゴメリー伯爵トマス・ハーバート英語: Thomas Herbert, 8th Earl of Pembroke and 5th Earl of Montgomery, KG, PC, PRS、1656年頃 - 1733年1月22日)は、ウィリアム3世アン女王の治世で活躍したイギリスの政治家。1683年までトマス・ハーバート閣下儀礼称号を使用した。

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ジョン・グリーンヒル英語版による肖像画

生涯

要約
視点

第5代ペンブルック伯爵フィリップ・ハーバート英語版(1669年没)と2人目の妻キャサリン・ヴィリアーズ(Catharine Villiers初代準男爵サー・ウィリアム・ウィリアーズの娘)の息子として、1656年頃に生まれた[1]。1673年3月18日、オックスフォード大学クライスト・チャーチに入学した[2]。兄の第6代伯爵ウィリアム英語版(1674年没)と第7代伯爵フィリップ英語版(1683年没)が男子をもうけないまま死去したため、1683年8月29日にペンブルック伯位を継承した[1]。法曹界の道を歩むとされたが[1]法曹院入りの記録はなかったという[3]

1679年3月イングランド総選挙英語版1679年10月イングランド総選挙英語版1681年イングランド総選挙英語版ウィルトン選挙区英語版から出馬して当選したが、庶民院で発言した記録はなかった[3]。1685年にモンマスの反乱が勃発すると、ウィルトシャー統監英語版として民兵隊を編成した[4]

1688年の名誉革命ウィリアム3世メアリー2世が即位して以降、20年にわたり高位の官職を務めた[3]。具体的には1689年2月14日にイングランド枢密院英語版の枢密顧問官に任命され、1690年から1692年まで海軍卿英語版を、1692年から1699年まで王璽尚書を、1699年から1702年まで枢密院議長を務め、1701年から1702年まで海軍卿を再任、さらに1702年に一時ロード・ハイ・アドミラル英語版を務めた[3]。同年に枢密院議長に復帰(1708年まで在任)、1706年から1707年までイングランド王国スコットランド王国の合同交渉におけるイングランド代表を務め、1707年から1708年までアイルランド総督を務め、1708年から1709年までロード・ハイ・アドミラルを再任した[3]。1709年に官職から辞任すると、3千ポンドの年金を与えられた[3]。また、1697年のレイスウェイク講和会議でイングランド代表を務め、1700年5月14日にガーター勲章を授与された[3]

政治ではコート派トーリー党に属し、貴族院では1696年に第3代準男爵サー・ジョン・フェンウィック英語版の処刑に反対、1701年に第二次分割条約を支持[4]、1711年のスペインなくして講和なしの動議に賛成、ハノーヴァー朝の王位継承にも賛成した[3]

公職以外にも多くの儀礼職に就任した。具体的には1683年から1715年までペンブルックシャー首席治安判事英語版を、1683年から1728年までグラモーガン首席治安判事英語版を、1683年から1733年までウィルトシャー統監英語版を、1694年から1715年までモンマスシャー統監英語版と南ウェールズ諸州の統監を務めた[3]

ジェームズ2世ウィリアム3世メアリー2世アンジョージ1世ジョージ2世と合計6人の君主の戴冠式で剣持ちの役割を果たした[1]

1733年1月22日に死去、31日にソールズベリー大聖堂に埋葬された[1]。長男ヘンリー英語版が爵位を継承した[1]

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人物

豪奢だったが、領地の管理を慎重に行い、長年官職を務めたため富を蓄えることに成功した[3]

学問では1685年5月13日に王立協会フェローに選出され、1689年から1690年まで王立協会会長を務め[5]、1689年にジョン・ロックより『人間知性論』を献呈され[4][6]、1705年にトマス・グリーンヒル英語版より『遺体衛生保全術』(The Art of Embalming)を献呈された[7]

家族

1684年7月26日、マーガレット・ソーヤー(Margaret Sawyer、1706年11月17日没、ロバート・ソーヤー英語版の娘)と結婚、5男2女をもうけた[8]

1708年9月21日、バーバラ・スリングスビー英語版(1722年8月1日没)と再婚、1女をもうけた[8]

  • バーバラ - ダドリー・ノース(Dudley North)と結婚

1725年6月14日、メアリー・ハウ(Mary Howe、1749年9月12日没、初代ハウ子爵スクループ・ハウの娘)と再婚した[8]

出典

関連図書

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