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トレビゾンド皇帝一覧

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トレビゾンド皇帝一覧
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トレビゾンド皇帝一覧(トレビゾンドこうていいちらん)では、トレビゾンド帝国皇帝を列挙する。

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アレクシオス3世メガス・コムネノス英語版(在位: 1349年 - 1390年)と皇后テオドラ・カンタクゼネ英語版。アレクシオス3世はトレビゾンド帝国史上もっとも長く皇帝として君臨した。

トレビゾンド皇帝

要約
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トレビゾンド帝国は1204年の第4回十字軍で一度滅んだビザンツ帝国(東ローマ帝国)の後継政権の一つで、1461年にオスマン帝国滅ぼされるまで存続した。トレビゾンド皇帝を輩出した主な一族は、かつて1081年から1185年までビザンツ皇帝を輩出し、コムネノス朝の時代を築いたコムネノス家であった。彼らは建国当初は古代ローマ帝国から続く皇帝系統の正統後継者を自称し、コンスタンティノープルのラテン帝国ラスカリス家英語版パレオロゴス家率いるニカイア帝国、コムネノス・ドゥーカス家(アンゲロス家の支流)率いるエピロス専制侯国テッサロニキ帝国に対抗した。またトレビゾンド皇帝たちは、自身の地位を強調するべく、13世紀後半からメガス・コムネノス (Μέγας Κομνηνός, 直訳:大コムネノス)という家名を称するようになった[1]

1204年以降に現れたビザンツ帝国後継政権の中で、トレビゾンド皇帝たちは輝かしい血統を持ちながら、目指すビザンツ帝国復興から最も遠い位置にいた。かつての帝国の辺境にあたる、コンスタンティノープルから遠く離れたトレビゾンド(現トルコ共和国トラブゾン県トラブゾン)にいるという地理的位置のみならず、コムネノス朝が最後の皇帝アンドロニコス1世コムネノス(在位: 1183年 - 1185年の代で破滅的な不人気を被って終焉を迎えたという評判の悪さが、その孫にあたる初代トレビゾンド皇帝アレクシオス1世コムネノス(在位: 1204年 - 1222年の時代まで尾を引いているという面もあった[2]。名目上、トレビゾンド皇帝たちは何十年にもわたりビザンツ帝国全体の支配権を主張し続けていたが、実際には13世紀前半のうちにニカイア帝国やルーム・セルジューク朝との争いの中で力を失っていった。1214年にルーム・セルジューク朝スルタンカイカーウス1世に攻められシノーペー失陥してからは、トレビゾンド帝国はビザンツ帝国復興競争から脱落し、小規模な地域勢力へと没落した[3]

1261年にニカイア皇帝ミカエル8世パレオロゴスがラテン帝国からコンスタンティノープルを奪還したが、それ以降もトレビゾンド皇帝は「ローマ人のバシレウスにしてアウトクラトール 」(βασιλεὺς καὶ αὐτοκράτωρ Ῥωμαῖων)という正統なビザンツ皇帝の称号を名乗り、パレオロゴス家を単なる簒奪者一家の一つと見なし続けた。しかし21年後の1282年、ヨハネス2世メガス・コムネノス英語版(在位: 1280年 - 1297年はミカエル8世の娘エウドキア・パレオロギナ英語版を娶るにあたってミカエル8世に配慮せざるを得なくなり、自身の称号を「全東方、イベリア人ペラテイア英語版のバシレウスにしてアウトクラトール」 (βασιλεὺς καὶ αὐτοκράτωρ πάσης Ἀνατολῆς, Ἰβήρων καὶ Περατείας)と改めた[4]。コンスタンティノープルのパレオロゴス朝皇帝はトレビゾンド皇帝を皇帝とすら認識しておらず、「ラズ人の公」などと呼んだ[5]

(メガス・)コムネノス家は、かつてコンスタンティノープルでビザンツ皇帝として君臨していたのよりもはるかに長い250年以上をトレビゾンド皇帝として存続し、パレオロゴス家がコンスタンティノープルで復活させたビザンツ帝国よりも8年長く生き延びた。しかし最終的には、いずれもオスマン帝国によって攻め滅ぼされた。

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脚注

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