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トーマス・B・フィッツパトリック

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トーマス・バーナード・フィッツパトリック(Thomas Bernard Fitzpatrick、1919年12月19日 - 2003年11月16日)は、アメリカ合衆国皮膚科医である。1959年から1987年までハーバード大学医学大学院皮膚科学科長、マサチューセッツ総合病院皮膚科医長を務めた。フィッツパトリックは多くの皮膚科医を育て、「近代皮膚科学の父」「この100年間で最も影響力のある皮膚科医」と評されている[1]

概要 生誕, 死没 ...
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生涯

フィッツパトリックは1919年12月19日ウィスコンシン州マディソンで生まれた。ウィスコンシン大学マディソン校を卒業した後、ハーバード大学医学大学院医学博士号(M.D.)を取得した。ハーバード在学中に、当時比較的新しい分野だった皮膚科学に興味を持った。ボストン市立病院英語版でインターンを経験した後、ミネソタ大学に入学して病理学Ph.D.を取得した。第二次世界大戦中は陸軍医療センターに2年間勤務した。その後、ミシガン大学メイヨー・クリニックで臨床皮膚科学の研修を受けた。

研修を終えた1952年、32歳でオレゴン大学皮膚科学科の教授兼学科長に就任した。1959年にはハーバード大学医学大学院皮膚科学科の主任教授に就任した。当時39歳で、これは同学の主任教授では史上最年少だった[2]

講演や指導のために頻繁に来日し、日本の皮膚科医の育成に貢献したことから、1987年に旭日章が授与された[3]

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業績

フィッツパトリックはメラノーマに関する初期の研究を行った。1966年、フィッツパトリックと皮膚病理学者のウォレス・H・クラーク・ジュニア英語版は、ジョン・レイカー、マーティン・C・ミーム・ジュニアとともに、マサチューセッツ総合病院にアメリカ初の色素性病変の診察室を設置した。クラークはこの診察室での研究により、メラノーマの病理組織診断を行うためのクラーク・レベル英語版を開発した。フィッツパトリックらは、メラノーマの兆候に関する体系的な研究を世界で初めて行った[4]

フィッツパトリックは、メラノーマの発生に日焼けが果たす役割について研究し、1975年、様々な肌の色に共通する日焼けの起こり方について発表し、そのためにフィッツパトリックのスキンタイプを開発した[5][6]。フィッツパトリックは他の研究者や製薬企業ともに、世界初近代的な日焼け止めを開発し、その試験を行った[7]。また、乾癬などの皮膚疾患の治療法としてPUVA療法を開発した[1]。基礎科学の分野においては、メラノソームとヒト由来チロシナーゼを発見した[2]

フィッツパトリックが執筆した"Fitzpatrick's Dermatology in General Medicine"は、臨床皮膚科学における最初の主要な参考書となった[8]

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私生活

フィッツパトリックはベアトリス・デバニー(Beatrice Devaney)と結婚し[2]、5人の子供をもうけた。

人の名言を集めるのが趣味で、その膨大な資料をもとに、『ボストン・グローブ』紙で"Reflection for the Day"というコラムを妻とともに執筆していた[1]

フィッツパトリックは2003年11月16日マサチューセッツ州レキシントンの自宅で死去した。

脚注

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