トップQs
タイムライン
チャット
視点

ニコライ・ズヴェーレフ

ウィキペディアから

ニコライ・ズヴェーレフ
Remove ads

ニコライ・セルゲーエヴィチ・ズヴェーレフロシア語: Никола́й Серге́евич Зве́рев, ラテン文字転写: Nikolai Sergeyevich Zverev, 1832年 1893年10月12日)はロシアピアニスト・音楽教師。ミリイ・バラキレフアレクサンドル・スクリャービンセルゲイ・ラフマニノフを世に送り出した名伯楽として名高い[1]

概要 ニコライセルゲーエヴィチ・ズヴェーレフ, 基本情報 ...
Remove ads

経歴

出生から修学期

1832年、ヴォロコラムスク近郊にて貴族の家庭に生まれた。モスクワ大学に進み、数学物理学を学ぶかたわら、アレクサンドル・デュビュック(1812年~1898年)にピアノを師事[1]。莫大な遺産を相続したことから大学を卒業せず、サンクトペテルブルクに移って官僚になった[2]

サンクトペテルブルク時代(官吏時代)

ペテルブルクではアドルフ・フォン・ヘンゼルトの薫陶を受け、練習の意義を力説された。このことがズヴェーレフ自身の厳格な指導原理となり、門弟にも厳しい要求を課すことにつながった[3]公務員職に満足できず、またデュビュックに説得されたこともあり、1867年にモスクワに戻ってピアノ個人教師として立つことを決意した。

モスクワへ戻る

1867年にモスクワへ戻ったのちは、ピアノの個人教授で身をたてたが、1870年ニコライ・ルビンシテインの要望を受け容れ、モスクワ音楽院の教師となった[1]。ズヴェーレフは同性愛者であり[4][5]、1893年に61歳で他界するまで生涯独身を貫いた[1]。モスクワのダニロフ修道院に埋葬されている。

Remove ads

指導法

ズヴェーレフに入門するには、オーディションを受けなければならず、合格してしまえば、ズヴェーレフ邸に身を寄せることになっていた。ズヴェーレフは一人ひとりの門人に多くを要求し、たとえば月ごとのオペラ鑑賞や室内楽のリハーサルもその一環だった[6]。一週間を通して、門弟たちは長時間練習しなければならなかったが、日曜日になると息抜きし、ズヴェーレフは自宅を開放した。日曜午後と夕方は、モスクワ中の音楽関係者や知識人を自宅に招いた。招待客には、ピョートル・チャイコフスキーアレクサンドル・タネーエフアントン・アレンスキーアントン・ルビンシテインワシーリー・サフォーノフアレクサンドル・ジロティのほか、俳優や法律家、学者がいた。こうした集いの間、ズヴェーレフは誰にもピアノに触れることを許さなかった。この集いは、門弟のためのものだったからである[1]

門弟

Thumb
門弟らに囲まれるズヴェーレフ。左手から順に、サムエリソン、スクリャービン、マクシモフ、ラフマニノフ、チェルニャエフ、ケーネマン、プレスマン

ズヴェーレフは男子のみを内弟子とし[5]、彼らを「見習い」と呼んでいた[1]。ズヴェーレフには、先述のほかに以下のような高弟がいる。

Remove ads

註釈

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads