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ヌィグメト・ヌルマコフ

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ヌィグメト・ヌルマコヴィチ(ヌルマクル)・ヌルマコフロシア語: Ныгмет Нурмакович Нурмаковカザフ語: Нығмет Нұрмақұлы Нұрмақов1895年4月25日 - 1937年9月27日)は、ソビエト連邦カザフスタンの政治家。

概要 生年月日, 出生地 ...
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生涯

要約
視点

前半生

1895年4月25日、ロシア帝国セミパラチンスク州クーで生まれ、村のロシア人学校からカルカリンスクロシア語版の2年制ロシア人=カザフ人学校へ進んだ[1]1911年にロシア人=カザフ人校を卒業[2]。同年にオムスクで開かれたロマノフ朝300周年記念ロシア語版農業博覧会に通訳として赴き、地理学者のグリゴリー・ポターニンやオムスク神学校教員のアレクサンドル・セデリニコフと出会った[1]。彼らの助力を得てオムスク神学校に入学し、在学中はサケン・セイフッリンロシア語版マグジャン・ジュマバエフロシア語版、ムフタル・サマトフ (kk) らとともに文化教育団体「ビルリク」(ru) を設立した[1]

革命期

1915年に神学校を卒業し、同年から翌1918年まではカルカリンスクのロシア人=カザフ人神学校で教えつつ[1]、労働者ソビエト「ダラ・オダグィ」を結成[2]1917年秋にはその議長に就いた[3]。1918年2月から5月まではカルカリンスク郡 (ru) ソビエト議員・書記も務めたが、ほどなく「ダラ・オダグィ」はアレクサンドル・コルチャークによって解散させられ、ヌルマコフも同志たちとともに逮捕され、18か月間収監された[3]1919年2月に釈放された後、労働者ソビエトの創設中にボリシェヴィキのP・バビンやイヴァン・ラトチェンコロシア語版と出会い、自身もボリシェヴィキへ加盟[1]1920年から1921年まではカルカリンスク郡とセミパラチンスク州の執行委員会、革命委員会で活動し、同年10月には革命裁判所ロシア語版長官を務めた[3]

カザフスタンでの活動

1922年2月にはオレンブルクへ移って党キルギス州ロシア語版委副議長に就き[3]、同年10月の第3回全キルギス・ソビエト大会においてキルギス執行委参議会議長に選出され、キルギス自治社会主義ソビエト共和国ロシア語版最高革命裁判所ロシア語版を指揮した[1]。同時期には検察官や法務委員部参議会メンバーとして活動し、翌1923年2月19日にキルギス自治共和国最高裁ロシア語版ロシア共和国最高裁の部局に再編されてからも、その長官に留任し秋まで務めた[1]。同年5月から翌1924年9月9日までは法務人民委員も務め、その短い任期の間に捜査機関の言語をカザフ語に、司法官の6割をカザフ人にすることに成功した[1]。同時に文芸分野では『カザク・ティピ』紙や『クィズィル・カザクスタン』(ru) 誌も編集している[2]

その後は数か月間党キルギス州委煽動・宣伝部部長に就き、1924年10月から1929年4月までの4年4か月間、キルギス自治共和国およびカザク自治共和国人民委員会議議長を務めた[3]。その人民委員会議議長としての任期において、カザフスタンではエキバストゥズカラガンダバルハシュロシア語版での鉱床開発、そしてトルキスタン・シベリア鉄道の建設が開始され[1]、またヌルマコフは首都のオレンブルクからクィズィル・オルダへの、そしてアルマ・アタへの遷都計画にも直接的な役割を果たした[2]。さらにヌルマコフは憲法制定委メンバーやカザフ語アルファベット委議長も務め、カザフスタン初の演劇劇場の設立にも大きく貢献している[2]。しかし、1929年4月には党カザク地方委責任書記フィリップ・ゴロシチョーキンロシア語版との対立が限界に達し、ヌルマコフはモスクワへ召喚された[1]。そして「富裕層からの没収」令に署名することを余儀なくされたが、その政策のいき過ぎには公然と反対意見を述べている[1]

後半生

モスクワでは同年に党中央委附属高等党学校ロシア語版 (ru) を卒業し[2]1931年からは全ロシア中央執行委ロシア語版幹部会副議長、民族問題部部長や党カザク地方委とカザク自治共和国中央執行委のメンバーを務め、シベリア沿ヴォルガロシア語版にも派遣された[3]。しかし、1937年6月3日にモスクワの自宅で逮捕され、トゥラル・ルィスクロフロシア語版と共謀してウラズ・イサエフロシア語版とアブドッラ・アスィルベコフ (ru) にアルマ・アタとカラガンダで反革命組織を結成させたことを「認めた」[1]。ヌルマコフは9月27日、NKVDトロイカ英語版による15分の審理の後に死刑判決を下され[1]、同日モスクワアリハン・ブケイハノフロシア語版とともに銃殺された[4]

妻や2人の弟(建築技師カメル (kk) と医学者アマン (kk) の父)も逮捕され、それぞれ収容所へ送られた[5]。妻は当初死刑判決を受けていたが、子供がいることを考慮して懲役刑に減刑され、その後19年間をアクモリンスク祖国反逆者の妻ラーゲリロシア語版などで過ごした[5]。夫妻の2人の子供も孤児院へと送られた[5]。娘はそこで死去したが、息子は生き延び、さらに大祖国戦争にも従軍し生還した[5]

その後ヌルマコフは新ドン墓地ロシア語版に葬られていたが[4]1956年8月に名誉回復ロシア語版がなされた[3]。ヌルマコフの名は、アルマトイクズロルダ、カラガンダ、カルカラルロシア語版エギンドゥブラクロシア語版の通り、カラガンダ第2寄宿学校に付けられ、また故郷の村とアルマトイの旧居にも記念碑が存在する[2]

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脚注

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