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ヒトラー内閣
アドルフ・ヒトラーを首相とするドイツの内閣 ウィキペディアから
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ヒトラー内閣(ヒトラーないかく)は、アドルフ・ヒトラーを首相とするドイツの内閣。1933年1月30日に成立し、1945年4月30日のアドルフ・ヒトラーの死まで存続した。いわゆるヴァイマル共和政の幕引きと、ナチス・ドイツ時代をもたらした。
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概要
要約
視点
→「ナチ党の権力掌握」も参照
ドイツ国大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクは1933年1月30日、ヒトラーをヴァイマル憲法下における11人目の首相に任命した。ヴァイマル憲法の規定によって成立した21番目の内閣であり、最後の内閣となった。この発足時点のヒトラー内閣は、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)と保守派・貴族の連立内閣であった。
ナチ党から入閣したのは首相ヒトラー、内務大臣ヴィルヘルム・フリック、無任所大臣ヘルマン・ゲーリングの3人のみであり、施政一般に対して、副首相フランツ・フォン・パーペンの承認がなければ大統領はこれを裁可しないとの条件が付されていた。パーペンは「われわれは彼を雇ったのさ」「わたしはヒンデンブルクに信頼されている。二ヶ月もしないうちにヒトラーは隅っこのほうに追いやられてきいきい泣いているだろう」と語り[1]、内閣の実権を握るつもりでいた。当時の内閣は合議制であり、首相に突出した実権が与えられていたわけではなかった。さらに、ゲーリングは閣僚とはいっても無任所大臣にしかすぎなかったし、フリックは内務大臣とはいっても全国的な警察の指揮権限を持たない(連邦制を採っていたヴァイマル体制下のドイツでは、各州に独自の警察が置かれていた)という弱体ぶりであった。
ところが、パーペンは国の最重要地域であったプロイセン自由州(国土と人口の過半を占めるとともに首都ベルリンをその域内に収めていた)を掌握して自分の権力を確立するため、自ら同自由州首相に就任した。しかしこの時に、ヒトラーはさすがに勘所を外さず、パーペンに要求してゲーリングをプロイセン自由州内務大臣に就任させることに成功する。プロイセン自由州内務省は同州の警察を所管していたから、中央政府においては無任所大臣にすぎなかったゲーリングが国土面積の過半数を占めるプロイセン自由州と首都におよぶ警察組織の指揮権を手に入れたのである。ゲーリングはこの権限を行使してプロイセン自由州警察の首脳部をナチ党員にすげ替え、権力基盤を確固たるものとしていった。
さらにヒトラーは、即座に国会を解散し、2月の国会議事堂放火事件後の大統領令による野党の弾圧、3月の総選挙後の全権委任法成立等を通じて次第に独裁権力を掌握し、4月ごろには「内閣の中で指導者(ヒトラー)の権威が完全に確立されるに至った。もはや表決が行われる事はない。指導者が決定を下すのだ。」とゲッベルスが日記に記すほどになった[2]。以降、非ナチ党員の閣僚は辞職するか実権を失ったし、閣議すら開かれることがめっきりなくなっていった。たとえば、ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージクは1933年から1945年まで財務大臣を務めたが、最後にヒトラーと面会したのは1942年であった。副首相パーペンもヒトラーの巧妙な権力掌握にはなすすべもなく、1934年6月30日の「長いナイフの夜」事件によって事実上失脚し、同年8月7日には副首相の辞任に追い込まれた。一方では、1933年3月にゲッベルスが国民啓蒙・宣伝大臣として入閣したことを皮切りとして、閣僚はヒトラーに忠実なナチ党員やヒトラーの信任を得た人物に入れ替えられていった。
ナチ党の権力掌握(マハトエアグライフング)を通じて、ナチ党とドイツ国家の一体化が進められた。その結果、ナチ党の有力者で内閣の大臣を兼ねた者は強大な政治的権限をふるった(国民啓蒙・宣伝大臣ゲッベルス、航空大臣ゲーリング、等)。中には、ナチ党組織を権力基盤としつつ、類似分野を担当する政府機関と権力闘争をくりひろげ、ついには後者を圧倒して閣僚職を手中に納めた者(親衛隊全国指導者で内務大臣を兼任することとなったヒムラー、ドイツ労働戦線指導者で無任所大臣を兼任することとなったライ、等)もいる。一方、閣僚であっても、ナチ党に基盤を持たない者は政治的実権を持たず、その大臣号も名誉職や事務担当者に過ぎないものとなった(財務大臣シュヴェリン・フォン・クロージク、労働大臣ゼルテ、等)。ただし、ナチ党に確固たる基盤を持たない者であっても、最高指導者ヒトラーの信頼を受けてさえいれば、その度合いに比例して強大な権力をふるうことができた(経済大臣時代のシャハト、軍需大臣シュペーア、外務大臣リッベントロップ、等)。ナチ党の幹部ではあってもヒトラーからの信任が薄い者は、閣僚としての権限は充分ではなかった(東部占領地域大臣ローゼンベルク、等)。
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発足時のヒトラー内閣
- 首相 - アドルフ・ヒトラー(ナチ党指導者)
- 副首相・プロイセン自由州首相 - フランツ・フォン・パーペン(男爵・元中央党・元首相)
- 外務大臣 - コンスタンティン・フォン・ノイラート(男爵・職業外交官)※留任
- 内務大臣 - ヴィルヘルム・フリック(ナチ党、党国会議員団長)
- 財務大臣 - ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク(伯爵・大蔵官僚)※留任
- 司法大臣 - フランツ・ギュルトナー(国家人民党)※留任
- 国防大臣 - ヴェルナー・フォン・ブロンベルク(陸軍中将)
- 経済大臣・農業・食糧大臣 - アルフレート・フーゲンベルク(国家人民党党首・メディア経営者)
- 労働大臣 - フランツ・ゼルテ(鉄兜団指導者)
- 運輸大臣・郵政大臣 - パウル・フォン・エルツ・リューベナッハ(男爵)※留任
- 無任所大臣 ・プロイセン自由州内務大臣・国会議長 - ヘルマン・ゲーリング(ナチ党)
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ヒトラー内閣歴代閣僚
要約
視点
- 国務大臣
上述の大臣は「Reichsminister」(大臣、国家大臣、帝国大臣、ライヒ大臣などと訳される)と呼ばれる上級の大臣職であった。ドイツ政府にはこのほかに、イギリスの閣外大臣に相当する下位の大臣職が存在し、「Staatsminister」(国務大臣、国務相などと訳される)と呼ばれていた。この地位にあったことが確認されるのは下記の2名である。ただし彼らは「Staatsminister im Rang eines Reichsministers」つまり「閣僚待遇の国務大臣」と位置づけられていた。
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ヒトラーの遺書による内閣
→「ヨーゼフ・ゲッベルス内閣」も参照
1945年、ヒトラーは自殺に先立って遺書をしたため、自らの後継者としてデーニッツ海軍元帥を大統領に任命するとともに、デーニッツが率いるべき新政府の閣僚をすべて指名した。ただし、こうした内容を盛り込んだヒトラーの遺書は3通作られて総統地下壕から外部(デーニッツ宛、中央軍集団司令官フェルディナント・シェルナー元帥宛、ミュンヘンのナチ党文書館宛)に送られたものの、いずれも移送中に隠匿されてしまい、全文が知られるには終戦後の調査を待たなければならなかった。
従って、この遺書の中で当時に公表され、一応は任命が発効したといえるのは、ベルリンの総統官邸地下壕にいたゲッベルスとナチ党官房長マルティン・ボルマンがデーニッツに電報で知らせた部分、すなわち大統領デーニッツ、首相ゲッベルス、ナチ党担当大臣ボルマン、外務大臣ザイス=インクヴァルトの4名だけであった。さらに、大統領となったデーニッツはヒトラーの遺言による閣僚指名を黙殺し、自らの内閣としてフレンスブルク政府を組織した。
※( )内は任命当時の職
- 大統領・国防軍最高司令官・国防大臣・海軍総司令官 - カール・デーニッツ海軍元帥(海軍総司令官)
- 首相 - ヨーゼフ・ゲッベルス(国民啓蒙・宣伝大臣、ベルリン大管区指導者、総力戦全国指導者、ベルリン防衛総監)
- ナチ党担当大臣 - マルティン・ボルマン(ナチ党官房長)
- 外務大臣 - アルトゥル・ザイス=インクヴァルト(無任所大臣・オランダ帝国弁務官)
- 内務大臣 - パウル・ギースラー(バイエルン州首相・ミュンヘン大管区指導者)
- 陸軍総司令官 - フェルディナント・シェルナー陸軍元帥(中央軍集団司令官)
- 空軍総司令官 - ローベルト・フォン・グライム空軍元帥
- 親衛隊全国指導者・ドイツ警察長官 - カール・ハンケ(ニーダーシュレジエン大管区指導者)
- 経済大臣 - ヴァルター・フンク(経済大臣・国立銀行総裁)※留任
- 食糧大臣 - ヘルベルト・バッケ(食糧大臣)※留任
- 司法大臣 - オットー・ゲオルク・ティーラック(司法大臣)※留任
- 科学・教育・国民文化大臣 - グスタフ・アドルフ・シェール(ザルツブルク帝国大管区指導者)
- 国民啓蒙・宣伝大臣 - ヴェルナー・ナウマン(国民啓蒙・宣伝省次官)
- 財務大臣 - ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク(財務大臣)※留任
- 労働大臣 - テオドール・フップアウアー(軍需省計画局長)
- 軍需大臣 - カール=オットー・ザウル(軍需省次官)
- 無任所大臣・ドイツ労働戦線総裁 - ロベルト・ライ(無任所大臣・ドイツ労働戦線総裁)※留任
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脚注
参考文献
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