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ピエール1世 (アランソン伯)
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アランソン伯ピエール1世(フランス語:Pierre I, comte d'Alençon, 1251年 - 1284年4月6日)は、フランス王ルイ9世とマルグリット・ド・プロヴァンスの息子。アランソン伯(在位:1269年 - 1284年)、ブロワ伯およびシャルトル伯(在位:1284年)、ギーズ領主(在位:1272年 - 1284年)。また、ペルシュ伯でもあった[1]。
生涯
ピエールは、父ルイ9世が第7回十字軍を率いていた時に、エルサレム王国のアトリットで生まれた[2] 。フランスに戻った後は、アランソン伯位を与えられる1269年までパリに住んだ[3]。1270年にピエールは父が率いた第8回十字軍に加わってチュニスに向かったが、十字軍兵士の間に赤痢が流行し大きな被害を受けたため、この遠征は失敗に終わった。父と兄ジャン・トリスタンはこの病で死去した。
1270年の父ルイ9世の死により、兄フィリップ3世がフランス王に即位した[4]。フィリップ3世が即位後最初に行ったことの一つは、自らが死去した場合にはピエールを摂政とすることであった[4]。この頃、ハンガリーの司祭アンドラーシュとピエールは親しくなった。アンドラーシュはシャルル・ダンジューのイタリア遠征に関する歴史書を書き、それをピエールに捧げた[5]。
1282年12月、シチリアの晩祷の際に、ピエールは叔父シャルル・ダンジューを支援するため、軍を率いてナポリへと向かい、レッジョ・ディ・カラブリアにとどまった[6]。1283年1月にはレッジョの郊外カトナに滞在し、そこでピエールはアラゴンの傭兵に攻撃され殺害された[6]。遺体はパリに運ばれて埋葬され、心臓はサン=ジャック通りのジャコバン修道院に収められた[7]。ピエールは死去した時には生存する男子がなく、アランソン伯領は王家に戻された[8]。妃ジャンヌ・ド・シャティヨンは再婚せず、1286年にシャルトルをフランス王フィリップ4世に売却した[9]。ジャンヌの死後、ギーズとブロワはシャティヨン家の従兄弟の手に渡った。
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結婚

1272年にブロワ女伯ジャンヌ・ド・ブロワ=シャティヨンと結婚し[10]、ピエールにブロワ、シャルトルおよびギーズをもたらした。以下の子女をもうけた。
- ルイ(1276年 - 1277年)
- フィリップ(1278年 - 1279年)
脚注
参考文献
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