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ヘニッジ・フィンチ (第4代エイルズフォード伯爵)
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第4代エイルズフォード伯爵ヘニッジ・フィンチ(英語: Heneage Finch, 4th Earl of Aylesford PC FRS FSA、1751年7月4日 – 1812年10月21日)は、イギリスの政治家、貴族。トーリー党に所属し、国王親衛隊隊長(在任:1783年 – 1804年)、王室家政長官(在任:1804年 – 1812年)を歴任した[1]。
生涯
第3代エイルズフォード伯爵ヘニッジ・フィンチとシャーロット・シーモア(Charlotte Seymour、1730年9月21日 – 1805年2月15日、第6代サマセット公爵チャールズ・シーモアの娘)の息子として1751年7月4日に生まれ、15日にアイズルワースで洗礼を受けた[2]。ウェストミンスター・スクールで教育を受けた後[3]、1767年11月13日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学、1770年6月16日にM.A.の学位を、1773年7月7日にD.C.L.の学位を修得した[4]。
1772年6月にキャッスル・ライジング選挙区で庶民院議員に当選、1774年イギリス総選挙でメイドストーン選挙区に鞍替えして再選した[3]。議会ではグレンヴィル法を恒久法とする法案(1774年)で野党側に回ったときを除き、一貫して政府を支持した[3]。また、庶民院議員としての演説は記録上1774年の2回しかなかった[3]。1777年5月9日に父が死去すると、エイルズフォード伯爵位を継承して[2]、貴族院に移籍した。
1777年から1783年12月までジョージ3世の寝室侍従を務め、1783年12月31日に枢密院に任命され、同時に国王親衛隊隊長にも任命された[3][5]。1804年、王室家政長官に転じ、以降死去まで同職を務めた[3]。
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画家として

画家として作品を数十点残しており、テート・ブリテンに現存する[6]。
家族
1781年11月18日、ルイーザ・シン(1760年3月25日 – 1832年12月28日、初代バース侯爵トマス・シンの娘)と結婚[1]、9男6女をもうけた。
- チャールズ(1784年7月18日没[8])
- シャーロット(1785年1月31日 – 1869年1月17日) - 1823年1月22日、チャールズ・パーマー(Charles Palmer)と結婚[8]
- ヘニッジ(1786年4月24日 – 1859年1月3日) - 第5代エイルズフォード伯爵[8]
- メアリー(1787年8月2日 – 1823年7月24日[8])
- ダニエル(1789年2月22日 – 1868年1月17日) - 法廷弁護士[8]
- エリザベス(1790年2月22日[8] – 1879年6月1日)
- フランシス(1791年2月1日[8] – 1886年7月12日)
- エドワード(1792年2月25日 – 1830年4月9日[8])
- ジョン(1793年3月13日 – 1861年11月25日) - 1835年7月28日、キャサリン・エリス(Katherine Ellice、アレクサンダー・エリスの娘)と結婚[8]
- ヘンリエッタ(1794年4月25日 – 1828年4月21日[8])
- ヘンリー(1795年5月28日 – 1820年8月29日[8])
- ジョージ(1798年5月13日 – 1799年11月19日[8])
- チャールズ(1799年7月18日 – 1859年11月19日[8])
- キャロライン(1799年7月18日 – 1821年) - チャールズの双子の妹[8]
- ジョージ(1804年6月10日 – 1823年9月19日[8])
- キャサリン(1806年2月2日 – 3月24日[8])
出典
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