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ヘンリー・カニンガム (初代カニンガム侯爵)
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初代カニンガム侯爵ヘンリー・バートン・カニンガム(英: Henry Burton Conyngham, 1st Marquess Conyngham, KP,GCH,PC, FRS、1766年12月26日-1832年12月28日)は、イギリスの政治家・貴族。
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経歴
1766年12月26日、アイルランド貴族の第2代カニンガム男爵フランシス・カニンガムとその妻エリザベス(旧姓クレメンツ)の間の長男としてロンドンに生まれる[1]。
1787年5月に父の死により第3代カニンガム男爵位を継承した。1789年5月には考古学協会のフェローとなる[2]。同年12月にはアイルランド貴族のカニンガム子爵に叙せられた[3]。1794年にエリザベスと結婚したが、ヘンリーはこの妻のおかげでのちに出世することとなる。
在郷軍人と治安判事としての実績を買われて[1]、1797年にカニンガム伯爵、マウント・チャールズ子爵に叙せられた[4]。
アイルランド合同を強く支持し、併合後の1801年にアイルランド貴族代表議員に選出されている。同年、聖パトリック騎士団が誕生すると、ヘンリーはナイトとして創設時のメンバーに選ばれた[2]。1803年から1831年にかけてはカウンティ・ドニゴール総督(Governor of County Donegal)、1808年から死去までカウンティ・クレア主席治安判事を務めた[2]。
妻エリザベスが1820年ごろから摂政ジョージ王太子と親しく付き合っており(いわゆるロイヤル・ミストレス)[5]、その兼ね合いで1816年1月にカニンガム侯爵、マウント・チャールズ伯爵、スレーン子爵に叙せられた[1][6](すべてアイルランド貴族爵位)。1821年に王太子が国王ジョージ4世として即位すると、ヘンリーは7月に連合王国貴族のミンスター男爵に叙された[7](これにより彼以降の当主は自動的に貴族院議員となる)。同年12月に枢密顧問官に列するとともに王室家政長官に就任した[2][8]。また1829年からはウィンザー城管理長官も兼ね、死去するまで務めた[1]。
ジョージ4世が崩御するとたちまち影響力を失い、1830年に王室家政長官を退任した[1]。
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栄典
爵位
勲章
家族

銀行家ジョゼフ・デニソンの娘エリザベスと結婚し、彼女との間に以下の5子を儲けた[9]。
- 第1子(長女)エリザベス・ヘンリエッタ・カニンガム (?-1839) : 第10代ハントリー侯爵チャールズ・ゴードンと結婚
- 第2子(次女)マリア・ハリエット・カニンガム (?-1843) : 初代アスラムニー男爵ウィリアム・サマーヴィルと結婚
- 第3子(長男)ヘンリー・フランシス・カニンガム (1797-1824) : 政治家。儀礼称号でマウント・チャールズ伯爵。父に先立つ
- 第4子(次男)フランシス・ナサニエル・カニンガム (1797-1876) : 政治家。第2代カニンガム侯爵
- 第5子(三男)アルバート・デニソン・カニンガム (1805-1860) : 政治家。初代ロンズバラ男爵に叙される。デニソンに改姓
出典
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