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ベトナム戦争終結のための全米動員委員会

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ベトナム戦争終結のための全米動員委員会(ベトナムせんそうしゅうけつのためのぜんべいどういんいいんかい、National Mobilization Committee to End the War in Vietnam)[注釈 1]は、1966年11月にアメリカ合衆国で結成された反戦運動家の集団である。ベトナム戦争反対英語版する大規模なデモを主導した。非公式に"Mobe"と呼ばれていた。

概要 後継, 解散 ...

Mobeに関わった人物や団体には、ベンジャミン・スポックSANE英語版、シドニー・ペック、エリック・ワインバーガー、デイヴィッド・デリンジャージェリー・ルービンジェームズ・ベヴェル英語版ステュー・アルバート英語版A・J・マスティ英語版マーティン・ルーサー・キング・ジュニアコレッタ・スコット・キングレニー・デイビス英語版、カレン・ウォルド、フレッド・ハルステッド英語版ブラッドフォード・リトル英語版チャールズ・オーウェン・ライス英語版、ベトナム・サマー、ロバート・グリーンブラット英語版(Mobeのコーディネーター)[4]トム・ヘイデン英語版などがある。

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歴史

要約
視点

結成

1966年9月10日から11日にかけて、オハイオ州クリーブランド11月8日動員委員会(November 8 Mobilization Committee)として結成された[5]。この組織は、同年11月26日のクリーブランドでの会議でベトナム戦争終結のための春季動員委員会(Spring Mobilization Committee to End the War in Vietnam)に改組された[6]。ジェームズ・ベヴェルが代表を務めた。

1967年4月15日のデモ

1967年4月15日、Mobeが開催したニューヨークセントラル・パークから国連本部までのベトナム戦争反対デモには、数十万人が参加した。マーティン・ルーサー・キング・ジュニアハリー・ベラフォンテ、ジェームズ・ベヴェル、ベンジャミン・スポックらが演説を行い、行進に参加した。『ニューヨーク・タイムズ』によれば、多くのデモ参加者が自身の徴兵カードを燃やした英語版という[7]サンフランシスコでも同時にデモが行われ、コレッタ・スコット・キングエルドリッジ・クレヴァー英語版ジュリアン・ボンド英語版らが演説を行った[8]

ニューヨークのデモで最後に演説を行ったベヴェルは、次の大規模デモはワシントンD.C.で行うと発言した[9]。この発言を受けて、Mobeは1967年5月20日から21日にワシントンD.C.で会議を開き、700人の反戦活動家が参加した。この会議において、ベトナム反戦運動の今後の方針が示され、同年秋に再び行われる大規模反戦デモを計画・主導するための組織として、Mobeは「ベトナム戦争終結のための全米動員委員会」に改組された。

ペンタゴン大行進

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ペンタゴン大行進の参加者

Mobeは、1967年10月21日に行われるワシントンD.C.での大規模デモを計画した。これは、リンカーン記念館近くのウェストポトマック公園英語版で集会を開いた後、ペンタゴン国防総省本庁舎)まで行進し、ペンタゴンの入口の階段で市民的不服従を行った後に、ペンタゴンの駐車場で再度集会を開くというものだった。このデモは、「ペンタゴン大行進」(March on the Pentagon)と呼ばれた。

Mobeのコーディネーターのデイヴィッド・デリンジャーは、大学生をこのデモに引き込むために、カリフォルニア大学バークレー校でベトナム反戦運動を率いていたジェリー・ルービン[10]にデモの組織化を任せた[10]

リンカーン記念館での集会には約7万人が参加し[11]、フォークシンガー、フィル・オクス英語版によるコンサート[12]や、デイヴィッド・デリンジャーベンジャミン・スポックによる演説が行われた[13]。集会の後、アビー・ホフマンに率いられた5万人がペンタゴンに向かって行進し、2回目の集会に参加した[10]

小説家ノーマン・メイラーを含む約650人が、ペンタゴンの入口で市民的不服従を行ったことにより逮捕された。アレン・ギンズバーグエド・サンダース英語版、アビー・ホフマン、ジェリー・ルービンら一部の参加者は、「悪魔払いによりペンタゴン内部の悪を追い出す」として、瞑想と詠唱によってペンタゴンを「空中浮揚」させようとした。

1968年民主党全国大会でのデモ活動

ペンタゴン大行進に続いて、Mobeは1968年8月にシカゴで開催される民主党全国大会英語版でのデモ活動を計画した。この大会では、現職のリンドン・ジョンソンが2期目のための大統領選挙候補に選出されると見込まれていた(実際には、ジョンソンは1968年3月に大統領選挙不出馬を表明した)。

民主党全国大会ではいくつかのグループがデモ活動を行った。しかし、シカゴ市長リチャード・J・デイリー英語版が警察を動員してデモ活動の阻止を大々的に行うと予想されたため、デモ参加者は1万人程度に留まった。後にデモの主導者として起訴された7人、いわゆる「シカゴ・セブン」の大半はMobeの関係者だった。

その後の活動

1968年11月の大統領選挙では、共和党のリチャード・ニクソンが当選した。1969年1月のニクソンの就任式に対抗して、Mobeは「反就任式」(counter-inaugural)デモを行った。このデモには1万人が参加し、一部の参加者は暴徒と化した。その後、Mobeは解散した。

1969年7月、クリーブランドのケース・ウェスタン・リザーブ大学で開かれた会議で「ベトナム戦争終結のための新動員委員会」(New Mobilization Committee to End the War in Vietnam、New Mobe)が組織された。New Mobeは、ベトナム・モラトリアム委員会や学生動員委員会(SMC)とともに、1969年10月15日にベトナム戦争終結のためのモラトリアム英語版を実施し、その他にも1969年11月15日のワシントンD.C.での大規模デモなど、全米でベトナム戦争反対のデモ活動を実施した[14]

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Mobeを題材とした作品

脚注

外部リンク

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