トップQs
タイムライン
チャット
視点

マガジャネス (砲艦)

ウィキペディアから

マガジャネス (砲艦)
Remove ads

マガジャネス (Magallanes) はチリ海軍砲艦[1]ないしコルベット[2]太平洋戦争や1891年の内戦に参加し、また測量などに従事した。

Thumb
「マガジャネス」
Thumb
「マガジャネス」の甲板の様子

艦のデータ

排水量950トン、長さ196フィート9インチ (59.89m)、幅29フィート100インチ (9.09m)、速力11ノット[3]。帆装はバーク[3]。兵装はアームストロング7インチ前装施条砲1門、アームストロング64ポンド前装施条砲1門、アームストロング4インチ20ポンド前装施条砲2門であった[3]

艦歴

要約
視点

ロンドンのRaenhill社で建造[1]。1873年7月28日進水[1]

1875年、「マガジャネス」はBahía Posesiónの測量を実施[1]。次いでAngostura Inglesaなどの測量に参加した[1]

1876年、パタゴニアの領有権主張のため、「マガジャネス」はアルゼンチンから許可を得てMonte León島でグアノを積んでいたフランス船「Jeanne Amélie」の拿捕に派遣された[4]。「マガジャネス」は「Jeanne Amélie」を拿捕するとプンタ・アレーナスへ曳航していこうとしたが、同船は強風のため難破した[4](4月27日沈没[1])。1878年にも「マガジャネス」は同様のアメリカ船「Devonshire」拿捕している[5]

1877年、「マガジャネス」はプンタ・アレーナスで起きた反乱を鎮圧した[1]

太平洋戦争

1879年4月12日、「マガジャネス」はペルーの「Unión」、「ピルコマヨ」と遭遇し交戦[6]。同月、「マガジャネス」と「アルミランテ・コクレーン」はMollendoを攻撃した[7]

5月16日(15日[8]とも)、「ブランコ・エンカラダ」、「アルミランテ・コクレーン」、「マガジャネス」などはイキケからカヤオ攻撃に向かう[9]。しかしイキケに着いたときそこには目標とするペルーの装甲艦2隻はおらず、チリ側は攻撃をせずに引き返した[10]

6月3日、「ブランコ・エンカラダ」と「マガジャネス」はペルー装甲艦「ワスカル」と遭遇し、長時間にわたる追跡を行ったが結局逃げられた[11]。7月9日から10日の夜、「マガジャネス」はイキケに現れた「ワスカル」と交戦[12]。「アルミランテ・コクレーン」が現れると「ワスカル」は逃走した[13]。8月下旬には「マガジャネス」はアントファガスタで「ワスカル」と交戦した[14]

チリ側は「ワスカル」を破壊するため、タールで覆ったダイナマイトを用いた作戦を計画していた[15]。「マガジャネス」が艀に乗せて流したそれを回収したペルー側が窯に投入すると艦が破壊される、というものである[15]。しかし「ワスカル」はアンガモスの海戦の結果、チリ側に鹵獲された。その海戦後、「マガジャネス」ではその爆発物入りの石炭は燃料庫に戻され、それによって艦が破壊されそうになっている[16]

10月28日、「マガジャネス」はPisagua攻略部隊を乗せた船団を「アルミランテ・コクレーン」などと共に護衛してアントファガスタから出撃した[17]。上陸は11月2日に行われた[18]

11月28日から「マガジャネス」は他艦と共にアリカ封鎖を開始[19]。1880年2月26日、「マガジャネス」と「ワスカル」は砲台と交戦した[20]。アリカ付近に集結したチリ軍は6月5日に攻撃を開始し、翌日は「マガジャネス」や「アルミランテ・コクレーン」などによる砲撃も行われた[21]。6月7日、アリカは陥落した。

11月下旬から12月上旬にかけて「マガジャネス」はコルベット「アブタオ」とともにアリカからPiscoへ向かった兵員輸送船団を護衛した[22]

1885年、「マガジャネス」はBahía de Araucoなどの測量やPalena川などの地図作成を行った[1]。1886年、Santa María島などの調査を実施[1]。1887年と1888年にはPuerto Condell、Bahía Posesiónなどの、1889年にはseno última EsperanzaIsla Orellaなど測量に参加した[1]

内戦

1891年1月に始まった内戦では議会派が海軍を掌握しており、「マガジャネス」もそちら側に属す[23]。1月6日時点で「マガジャネス」は「ブランコ・エンカラダ」、「エスメラルダ」、「O'Higgins」とともに就役状態でバルパライソ湾にあった[24]

「マガジャネス」と「アルミランテ・コクレーン」は北部の港の封鎖、占領に向かい、「マガジャネス」はPisaguaの封鎖を命じられた[25]。同地の守備隊はわずかですぐに降伏したが、イキケから政府軍が来たことで1月26日にPisaguaからは撤収となった[26]

議会派の軍は8月20日にバルパライソの北に上陸し、28日にバルパライソを占領した[27]。8月20日、バルパライソから出てきた水雷艇「Sargente Aldea」、「Guale」を「マガジャネス」と「エスメラルダ」、「Biobio」は追い払った[28]。8月21日、議会派の軍のアコンカグア川渡河の際、「マガジャネス」は「エスメラルダ」などと共に支援した[29]

1893年、「マガジャネス」はReina Adelaida諸島を探査し、またislas Cuarenta Díasの地図を作製した[1]。1895年にはチロエ島東岸の地図作成などに従事[1]。1897年と1898年、「マガジャネス」はCanal Bárbaraの探査やBahía Gente Grandeの測量などを行った[1]。1903年から1906年にかけては「マガジャネス」はSeno OtwayFitzroy Channel、Reina Adelaida諸島、タイタオ半島などの測量や調査に参加した[1]

1906年に「マガジャネス」は商船になり、翌年Corral出港時に嵐により難破した[1]

Remove ads

脚注

参考文献

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads