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マリア・ブランシャール

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マリア・ブランシャール
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マリア・ブランシャール(María Blanchard、フルネーム:María Gutiérrez Cueto y Blanchard、1881年3月6日 - 1932年4月15日)はスペイン生まれの画家である。キュビスムの作品を描いた画家の一人である[1][2]

概要 マリア・ブランシャールMaría Blanchard, 生誕 ...

略歴

スペイン、カンタブリア州サンタンデールの有力な一族に生まれた。父親のエンリケ・グティエレス・クエト(Enrique Gutiérrez Cueto)はジャーナリストであった。いとこにメキシコ生まれの彫刻家、画家のヘルマン・クエト(Germán Gutiérrez Cueto: 1893–1975)がいる。

生まれつき脊椎が変形した障害があった。幼い頃から絵を学び、1903年にマドリードに移り、王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学し、フェルナンド・アルバレス(Fernando Álvarez de Sotomayor)やマヌエル・ベネディト(Manuel Benedito)、エミリオ・サーラ(Emilio Sala)に学んだ。1909年にサンタンデール市から奨学金を得て、パリに留学し、私立学校のアカデミー・ヴィッティ(Académie Vitti)で、エルメネヒルド・アングラーダ・カマラサ(Hermenegildo Anglada Camarasa)やキース・ヴァン・ドンゲンに学んだ。

パリでジャック・リプシッツ(Jacques Lipchitz)やフアン・グリスらの影響を受けて、キュビスムの作品を描くようになった。1914年に、友人の芸術家たちとマヨルカ島にいた時、第一次世界大戦が始まり、パリに戻れなくなったブランシャールたちはマドリードに移った。マドリードでは、1915年に作家のラモン・ゴメス・デ・ラ・セルナ(Ramón Gómez de la Serna)が企画した前衛画家の美術展に参加するが、この展覧会はスペインでは不評に終わった。1914年から1916年の間、スペインのサラマンカで絵の教師として働いた後、1916年の末にパリに移り、そこに永住した。

1920年代にフランスやベルギー、イタリアの展覧会に参加し、前衛画家として評価され、パトロンにも恵まれるが、1927年に友人のフアン・グリスが亡くなるなどした後は、社会的に孤立するようになり、結核と思われる病気で健康状態も悪化した。晩年は経済的にも恵まれなくなり、1932年に51歳でパリで亡くなった[3][4]

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作品

脚注

参考文献

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