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マーヴィン・ウィンフィールド (第7代ポーズコート子爵)

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マーヴィン・ウィンフィールド (第7代ポーズコート子爵)
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第7代ポーズコート子爵マーヴィン・ウィンフィールド英語: Mervyn Wingfield, 7th Viscount Powerscourt KP PC (Ire) MRIA1836年10月13日1904年6月5日)は、イギリスの政治家、アイルランド貴族

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1903年の第7代ポーズコート子爵

生涯

第6代ポーズコート子爵リチャード・ウィンフィールドとエリザベス・フランシス・シャーロット・ジョスリン(Elizabeth Frances Charlotte Jocelyn、1813年12月13日 – 1884年9月2日、第3代ローデン伯爵ロバート・ジョスリンの娘)の息子として、1836年10月13日[1]にポーズコート城(Powerscourt Castle)で生まれた[2]。1844年8月11日に父が死去すると、ポーズコート子爵位を継承した[1]イートン・カレッジで教育を受けた後、1854年から1862年までライフガーズ第1連隊英語版で士官を務めた[1]

1857年に成人した後、自領のポーズコート地所の発展に尽力したほか、芸術収集にも余念がなく、1864年にアイルランド国立美術館の理事に任命され、1875年に王立アイルランドアカデミー英語版会員に選出された[2]。1892年から1897年までロイヤル・ダブリン・ソサエティ英語版会長を務めた[2]

1865年から1904年までアイルランド貴族代表議員を務め[3]貴族院自由党を支持し、1869年のアイルランド国教会廃止に賛成票を投じた[2]。その後、1871年8月2日に聖パトリック勲章を授与され[1]、1885年6月27日に連合王国貴族であるウィックロー県におけるポーズコートのポーズコート男爵に叙された[1][4]。しかし、ウィリアム・グラッドストンのアイルランド自治への転向に反対し、1886年に自由統一党に転じた[2]

1897年8月6日にアイルランド枢密院英語版の枢密顧問官に任命された[5]

1883年時点でウィックロー県に40,986エーカーの、ウェックスフォード県に11,641エーカーの、ダブリン県に631エーカーの土地を所有し、これらの土地から年16,385ポンドの収入を得た[1]

1904年6月5日に死去、息子マーヴィン・リチャードが爵位を継承した[3]

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著作

  • Wingfield, Mervyn (1903). A Description and History of Powerscourt (英語). London: Mitchell and Hughes.

家族

1864年4月26日にジュリア・クック(Julia Coke、1844年12月4日 – 1931年8月7日、第2代レスター伯爵トマス・クックの娘)と結婚、2男3女をもうけた[3]

  • マーヴィン・リチャード(1880年 – 1947年) - 第8代ポーズコート子爵
  • モーリス・アンソニー(1883年6月21日 – 1956年4月14日) - 1906年10月10日、シビル・フランシス・レイランド(Sybil Frances Leyland、1967年12月20日没、フレデリック・ドーソン・レイランドの娘)と結婚、子供あり
  • オリーヴ・エリザベス(Olive Elizabeth、1884年11月6日 – 1908年以降) - 1908年12月17日、第4代テンプルモア男爵アーサー・チチェスター英語版と結婚、子供あり
  • クレア・メリエル(Clare Meriel、1886年6月5日 – 1969年7月23日) - 1917年1月10日、ウィリアム・ジョン・ベーツ・ヴァン・デ・ウェイヤー英語版と結婚、子供あり
  • リラ・キャサリン・ジュリア(Lilah Katherine Julia、1888年1月13日 – 1981年10月20日) - 1912年11月21日、初代準男爵サー・クライヴ・モリソン=ベル英語版と結婚、子供あり

出典

外部リンク

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