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ミハイル・スコベレフ

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ミハイル・スコベレフ
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ミハイル・ドミトリーエヴィチ・スコベレフロシア語: Михаи́л Дми́триевич Ско́белев1843年9月29日1882年7月7日)は、ロシア帝国軍人。歩兵大将。コーカンド・ハン国の併合、露土戦争トルクメニスタンの占領等で活躍した。

概要 ミハイル・スコベレフ Михаил Скобелев, 渾名 ...

経歴

要約
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ペテルブルクのペトロパヴロフスク要塞出身。陸軍少尉ドミトリー・スコベレフロシア語版(のち陸軍中将)の息子[1]パリのジラルデ寄宿学校で学び、数か国語を習得した。1861年ペテルブルク大学に合格したが、同大学が学生蜂起のため閉鎖されたため、軍人の道を進み、近衛重騎兵連隊に配属された。

1863年、休暇で父の住むポーランドに向かったが、同地の1月蜂起の鎮圧に志願した。1864年、近衛グロドノ軽騎兵連隊転属を志願し、反乱軍残余部隊の鎮圧に参加した。1868年参謀本部アカデミーロシア語版英語版を卒業し、11月にトルキスタン軍管区に配属された。ブハラ国境での小規模な紛争に従事。1870年、カフカース軍管区英語版に転属し、翌年1871年3月にクラスノボツクの分遣隊に送られ、そこで騎兵隊を指揮した。また、ヒヴァへのルートの策定という特命を受け、コサックとトルクメン人3人のみを連れ、灼熱の中をサリカミシュ湖の水脈を偵察しつつ9日間でムリカリ~ウズンクユ間の437 km、そして16.5時間でクム~セブシェン間134 kmを踏破した。1日あたりの平均速度は時速48 kmとなる。

1873年ヒヴァ遠征にニコライ・ロマキンロシア語版大佐率いるマンギシュラク分遣隊の一員として参加し、1873年-1876年コーカンド蜂起の鎮圧で活躍した。この結果、コーカンド・ハン国はロシアに併合され、同地にフェルガナ州が設置され、スコベレフは、総督兼軍司令官に任命された。8年間に渡る総督在任時、同化政策を推進した。この間、少将に昇進し、金製武器、四等及び三等聖ゲオルギー勲章ロシア語版を授与された。

1877年-1878年露土戦争に志願。この時、スコベレフは、敵の的になりやすい白馬に乗り、白い制服、白い制帽を着用したため、兵士達から「白い将軍」と呼ばれた。スコベレフ指揮下の部隊は、露土戦争中、ロフチャ郊外の戦い英語版で勝利し、2度のプレヴナ強襲ロシア語版、バルカン山脈超えの冬季遠征、シェイノヴォ郊外の戦いロシア語版に参加し、サン・ステファノを占領した。この功績によりスコベレフは、中将に昇進し、大きな名声を得た。

1880年-1881年、遠征隊を指揮し、アシガバート近郊のギョクデペ要塞に立てこもるテケ部族フランス語版)と戦い、トルクメニスタンを占領した(ギョクデペの戦い)。この功績により、歩兵大将に昇進し、二等聖ゲオルギー勲章を授与された。スコベレフは、ロシアをスラブ世界のリーダーと考え、スラブ人国家の統合を夢見、また、オーストリア・ハンガリードイツをスラブ人の敵と見ていた。彼の見解は、国際情勢を複雑にする恐れがあったため、アレクサンドル3世は、スコベレフを欧州から召還した。1882年、心臓麻痺により死去。

1912年モスクワのトヴョールスカヤ広場に記念碑が建てられたが、1918年、ソビエト当局の命令により撤去された。

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親族

  • 祖父:イヴァン・スコベレフロシア語版(1778 - 1849)歩兵大将
  • 父:ドミトリー・スコベレフロシア語版中将
  • 母:オルガ・スコベレワロシア語版(1823 - 1880)退役将校で地主のニコライ・ポルタフツェフの子。露土戦争で診療所長を務めた。プロヴディフにて夜盗に殺害される。
  • 長妹:ナデジダ・スコベレワ - 陸軍中将コンスタンティン・ベロセルスキー=ベロゼルスキーロシア語版に嫁ぐ
  • 次妹:オルガ・スコベレワ - 元騎兵将校で地主のヴァシリー・シェレメテフロシア語版に嫁ぐ
  • 末妹:ジナイダ・スコベレワロシア語版(1856 — 1899) - 第5代ロイヒテンベルク公エヴゲーニイ・マクシミリアノヴィッチロシア語版に嫁ぐ。

脚注

参考資料

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