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メンフィス・スリム

アメリカ合衆国のブルース・ピアニスト、歌手、ソングライター(1915-1988) ウィキペディアから

メンフィス・スリム
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メンフィス・スリムMemphis Slim1915年9月3日 - 1988年2月24日)は、アメリカ合衆国ブルースピアニスト歌手ソングライターである[1]。彼は、ジャンプ・ブルースを押し出したいくつかのバンドを率いたことで知られている。彼の「Every Day I Have The Blues」はブルースのスタンダード曲となり、多くのアーティストによってレコーディングされた。彼は、500曲以上のレコーディングを残している。

概要 メンフィス・スリム, 基本情報 ...

彼は没後の1989年にブルースの殿堂入りをしている[2]

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来歴

要約
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メンフィスにあるメンフィス・スリムの家

メンフィス・スリムは、1915年9月3日テネシー州メンフィスに生まれた。本名は、ジョン・レン・チャットマン。彼の父親ピーター・チャットマンも歌手、ピアニスト、ギタリストであり、ジュークジョイントの経営者でもあった[3][2]

1940年、メンフィス・スリムの芸名でレコード・デビューしたが、彼は自身の楽曲のソングライター・クレジットとしては父親の名前Peter Chatmanを使うようになった。これは父親を称える意味があったものと言われる[2]

彼は1930年代の殆どをアーカンソー州ウェストメンフィス、そしてミズーリ州南東部の安酒場、ダンスホール、賭博場などで演奏をして過ごした[4]。1939年、シカゴに移住し、間もなくギタリストで歌手のビッグ・ビル・ブルーンジーと組んでクラブでプレイするようになった[1]。1940年、1941年に彼はブルーバード・レコードに2曲をレコーディングし[5]、これらの曲は後まで彼のレパートリーとなった。そのうちの1曲は「Beer Drinking Woman」であり[6]、もう1曲は「Grinder Man Blues」であった。メンフィス・スリムの名義でのレコードであったが、この芸名の名付け親はブルーバードのプロデューサーのレスター・メルローズであった[7]。スリムはブルーバードのレギュラーのセッション・ミュージシャンとなり、サニー・ボーイ・ウィリアムソンI世、ウォッシュボード・サム、ジャズ・ジラムらのレコードで彼はピアノを弾いた[1]。1940年代半ば頃までのスリムのレコーディングの多くはブルーンジーを伴っていた。ブルーンジーは、彼のサポート役だったピアニスト、ジョシュア・アルトハイマーが1940年に死去し、後任としてスリムと組んだのだった[1]

第二次世界大戦後、スリムはサクソフォーン、ベース、ドラムス、ピアノという編成のバンドを組み、人気を博していたジャンプ・ブルースのサウンドを押し出すようになった。メジャー・レーベルによるブルースのリリースが減少する中、彼び仕事は新たに設立された独立系のレーベルへと移っていった。1945年には、、彼はシカゴの零細レーベル、ハイトーン(Hy-Tone)・レコードでトリオとレコーディングを行なった[8]アルト・サクソフォーンテナー・サクソフォーンピアノウッドベースという編成のバンド(最初のセッションではウィリー・ディクスンがウッドベースを担当した)で彼は1946年秋、ミラクル・レーベルと契約した。最初のセッションでレコーディングされた曲の一つは威勢のいいブギ・ナンバー「Rockin' The House」で、この曲からバンドはハウス・ロッカーズと名付けられた。スリムとハウス・ロッカーズは1949年まで、主にミラクル・レーベルにレコーディングを続け、小規模ながらも商業的な成功も収めた[1]。彼らがレコーディングした曲の中には「Messing Around」(1948年にR&Bチャートの1位を記録)、「Harlem Bound」があった[9]。1947年、民俗学者のアラン・ローマックスは、ニューヨークタウンホールでのスリム、ブルーンジー、ウィリアムソンI世のコンサートのプロデュースを終えた翌日、彼ら3人をデッカ・レコードのスタジオに連れて行き、スリムをボーカルとピアノに据えてレコーディングを行なった。ローマックスはこのレコーディングの一部を1950年代初頭にドキュメンタリー『The Art Of The Negro』としてBBCラジオに提供し、後日拡張した内容を『Blues In The Mississippi Night』のタイトルでLPリリースした。1949年、スリムは自身のコンボにドラマーを加えてクインテットとしている。彼らは殆ど時間をツアーに費やし、これを通じてシンシナティキング・レコードヒューストンピーコック・レコードでスポットでのレコーディングをする機会に恵まれた。

スリムの1947年のミラクルへのレコーディングの一つで1949年にリリースになった「Nobody Loves Me」は、後に「Every Day I Have The Blues」として有名になった。この曲は1950年にローウェル・フルソンによってカバーされ、続いてB.B.キングエルモア・ジェームスT-ボーン・ウォーカーレイ・チャールズエリック・クラプトンナタリー・コールエラ・フィッツジェラルドジミ・ヘンドリクスマヘリア・ジャクソンサラ・ヴォーンカルロス・サンタナジョン・メイヤールー・ロウルズ、その他大勢のアーティストによって取り上げられた[10]。ジャズ・シンガーのジョー・ウィリアムズは1952年にチェッカー・レコードにこの曲をレコーディングしている。彼による1956年のリメイク(『Count Basie Swings, Joe Williams Sings』収録)は、1992年にグラミーの殿堂入りをしている[11]

1950年代初頭にミラクル・レーベルは財政上の困難に直面し閉鎖となったが、同レーベルのオーナーたちは再び協力してプレミアム・レーベルを設立。スリムは1951年の夏にこの新設されたレーベルが経営危機を迎えるまで同レーベルに所属した。1951年2月のプレミアムのセッションでは、ハウス・ロッカーズに2つの点で変化が見られた。従来サックスはアルトとテナーが1本ずつであったものが、テナー2本に変更、そして試験的にギタリストのアイク・パーキンズを加入させている。プレミアムでの最後のセッションでもテナー2本という形式は維持しているものの、ギターは除外している。プレミアム在籍時に、スリムは「Mother Earth」の最初のバージョンをレコーディングした[12]

スリムはキングでは1回のセッションを行なったに過ぎなかったが、 同レーベルは彼のハイトーン音源を買収。ミラクルについてもレーベル閉鎖後の1950年にマスターを取得している。スリムはチェスと契約したことはなかったものの、同レーベルのレナード・チェスはプレミアムが閉鎖された際に、同レーベル音源の多くを取得しており、その中にはスリムの音源も含まれていた。

マーキュリー・レコードに1年間在籍した後、スリムはシカゴのユナイテッド・レコードと契約した[13]。スリムは同社のA&R担当のルー・シンプキンズとはミラクル、プレミアム時代に面識があった。スリムはちょうどマット"ギター"マーフィーを彼のグループにギタリストとして迎え入れたところで、よいタイミングであった。スリムは1954年末までユナイテッドに在籍したが、同社はブルースのレコーディング数を制限し出したため離れざるを得ない状況となった[14]

1954年以降、スリムは暫くレコード契約がない状況に置かれたが、1958年にヴィージェイ・レコードと契約。1959年にマーフィーをフィーチャーしたバンドとともに、アルバム『Memphis Slim At The Gate Of The Horn』をリリースした。同作では「Mother Earth」、「Gotta Find My Baby」、「Rockin' The Blues」、「Steppin' Out」、「Slim's Blues」といった彼の知られた楽曲が再演されている[15]。1959年12月、ウィリー・ディクスンのデビュー・アルバム『Willie's Blues』がリリースとなった[16]。スリムはピアニストとして、ディクスンとほぼ対等なクレジットを得ている。スリムは全トラックでプレイし、ディクスンの自作ではない曲のうち2曲を書いている[17]

スリムは1960年、ウィリー・ディクスンとのヨーロッパ・ツアーで初めての海外公演を行なっている。彼は1962年にアメリカン・フォーク・ブルース・フェスティバルで再びヨーロッパを訪れた。このフェスティバルには彼はフィーチャー・アーティストの一人としてブッキングされたが、その他多くの著名な米国のアーティストが1960年代から70年代にかけて出演した[1]。スリムはディクスンと組み『Memphis Slim And Willie Dixon At The Village Gate With Pete Seeger』(1962年)などいくつかのアルバムをフォークウェイズ・レーベルからリリースしている[18]

1962年、スリムはパリに移住。その魅力的な個性、卓越した演奏と歌、ストーリーテリングで、その後30年近くに渡り、ヨーロッパの最も傑出したブルース・アーティストの一人として活躍を続けた[1]。彼はヨーロッパ各国で数多くのテレビ出演をし、いくつかのフランス映画に出演、1970年の映画『À nous deux France』のスコアも担当した。彼はパリを始め、ヨーロッパ各地で通常公演を行ない、米国にも遠征して公演をした。後年には、彼はジャズ・ドラマーのジョージ・コリアーと組んで活動している。彼らは共にヨーロッパをツアーして親交を深めた。1987年8月にコリアーが死去すると、スリムが公の場に姿を現す機会は減ったものの、1987年にはマット"ギター"マーフィーとの再会ギグをオースティンのアントンズで行なっている。

死去の2年前に、スリムはフランス文化省芸術文化勲章のコマンドゥールを授与された。一方、アメリカ合衆国上院は、彼に親善特使の称号を授与している[19]

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メンフィス・スリムの墓

スリムは、1988年2月24日、腎不全のため死去した。72歳であった[20][21][22][23][24]。彼はテネシー州メンフィスのガリリー・メモリアル・ガーデンズに埋葬された[25]

彼は、没後の1989年にブルースの殿堂入りを果たしている[2]。また、メンフィス音楽の殿堂には2015年に迎え入れられた。

チャート入りしたシングル

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アルバム

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脚注

参考文献

外部リンク

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