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ヤラ (スループ)
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ヤラ(HMAS Yarra)はオーストラリア海軍のスループ。グリムスビー級。
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艦歴
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1934年5月28日起工[1]。1935年3月28日進水[1]。1936年1月21日就役[1]。

1941年12月8日に太平洋戦争が始まると、「ヤラ」は同年12月16日にアレクサンドリアを出て極東へ向かい、コロンボを経由して、1942年1月11日にジャカルタのタンジュン・プリオク港へ進出した[2]。同地で東インド戦隊に配属された「ヤラ」は、船団護衛任務に従事した。1942年2月初めには、シンガポールへ最後の増援部隊を運ぶBM.12船団(輸送船5隻・護衛は軽巡洋艦「ダナエー」以下3隻)を護衛し、目的地到着直前の2月5日に日本軍機の空襲を受けるが損害は極めて軽微で、1機撃墜確実・2機不確実の戦果を報じた[2]。さらに、この空襲で撃沈された客船「エンプレス・オブ・エイジア」の乗船将兵ら1804人を救助した[2]。
沈没
1942年2月27日、スループ「ジュムナ」とともに宿泊船「アンキン (HMS Anking)」、タンカー「ウォー・サーダー (War Sirdar)」、「ブリティッシュ・ジャッジ (British Judge)」、「フランコル (Francol)」、掃海艇「Gemas」、「MMS.51」からなる船団を護衛してジャワ島タンジョン・プリオクから出発[3]。途中で「ウォー・サーダー」は座礁し、「ブリティッシュ・ジャッジ」は被雷して脱落したが、3月2日にチラチャップ沖に着いた[1]。だが、そこでチラチャップには入港せず「ジュムナ」はコロンボへ、「ヤラ」は船団とともにフリーマントルへ行くよう命じられた[1]。3月3日、オランダ船「Parigi」の生存者を救助[1]。また同日夜、潜水艦探知の報告により爆雷2発を投下した[4]。
3月4日、「ヤラ」、「アンキン」、「フランコル」、「MMS.51」は日本の重巡洋艦「愛宕」、「高雄」、「摩耶」、駆逐艦「嵐」、「野分」に捕捉攻撃された[4]。「ヤラ」艦長は船団に分散を命じ、敵との間に入って煙幕を張った[1]。だが、「アンキン」、「MMS.51」、「フランコル」と撃沈され、最後に「ヤラ」も沈んだ[5]。「ヤラ」乗員は3月9日にオランダ潜水艦「K11」によって13名が救助されたが、艦長以下138名が死亡した[1]。
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脚注
参考文献
外部リンク
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