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ヤーコフ・トリャピーツィン
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ヤーコフ・イヴァノヴィチ・トリャピーツィン(ロシア語: Яков Иванович Тряпицын,ラテン文字転写: Yakov Ivanovich Tryapitsyn,1897年4月13日 4月25日 - 1920年7月9日)は、ロシア帝国の軍人・政治家。尼港事件の首謀者。
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概要
1897年4月13日(4月25日とも)、ロシア帝国ウラジミール州のムーロム郡のサワスレイカ村で、農民のイワン・ステパノビッチ・シドロフ・トリャピーツィンの息子として生まれた。4年制の学校で勉強し、優秀な成績で卒業した。1915年、彼はモルドフシチク造船所の内部倉庫で蒸気機関車の助手として働き始めた。戦時中はロシア帝国陸軍の少尉、ロシア帝国崩壊後は赤軍司令官として、赤軍ニコラエフ戦線およびニコラエフ軍管区、極東人民革命軍オホーツク戦線を指揮し、シベリア・極東におけるソ連の権力確立に活躍、内戦に参加した。尼港事件において停戦協定を無視したことや、ロシア人も大量虐殺した事により、レーニンの怒りを買ったため、一味ともども銃殺刑に処された。ボリシェヴィキではなくアナーキストとみられていたため、この事件が理由とされただけで勢力争いの結果と見る向きもある。後にソ連邦元帥となるヴァシーリー・ブリュヘルはトリャピーツィンの処刑に嘆き、こう述べている。
トリャピーツィンは、シベリアの「祖父」ネストル・カランダリシュヴィリ(Нестор Каландаришвили、東シベリアで活躍した無政府共産主義者)と同じように、ソビエトの力のための戦士であった...彼らはヤーコフ・トリャピーツィンを無駄に殺した。彼らはこの複雑な問題を完全には理解せず、すべて何もかも台無しにしてまった。
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ギャラリー
- Yakov Ivanovich Tryapitsyn-赤軍のニコラエフ地区(正面)の司令官。
- 1920年3月末の赤軍のニコラエフスキー地区(前線)の指揮の元、赤軍パルチザン幹部の集合写真。中央の白衣姿がヤーコフ・トリピャーツィン。
- 1920年4月のサハリン地域とニコラエフ地区(前)のリーダーシップ
注釈
参考文献
関連項目
外部リンク
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